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N/Nプロジェクト 第8章

〔第8章〕

 春には珍しく、美しい星空だった。
 施設3階に位置する「ブロック3」のある一室の窓から、その星空を飽きずにじっと眺めている一人の女の姿があった。
 ホッソリとした華奢な身体が微かな光に照らされて薄暗いシルエットを作っている。
 流れるような繊細な顎のラインが、月の光を受けて一層際だっている。
 肩にかかるミディアムヘアが、女の小さな動きに反応して、時折微かに揺れている。

 女の部屋のドアにはローズピンクで縁取られたネームプレートが張られてある。
 そこには名字もなく、たった2文字・・・・『慶花』とだけ書かれてあった。 
 この部屋こそ、真の性別と本当の年齢を捨てることを余儀なくされた男性『水瀬慶太』が、『慶花』という一人の女性としての人生を歩み始めた部屋であった。
 まるで一人の女子大生が住んでいるかのようなその部屋は、『慶花』のためだけの部屋である。他に住む者はいない。
 つまり、星空を眺め大きなため息をついた女性こそ、『慶花』その人である。

 慶花は姿見の前に移動すると、ホットピンクのレースベビードールに身を包んだ姿を、頭の先からつま先まで幾度も目で追った。
 白い肌とフルメイクの愛らしい容貌とセクシーなベビードールとが作り出す美しさに、慶花は自己満足の笑みを見せる。
 だが、同時にレース越しに映し出される身体の線に目が行くと、後悔とも諦念ともつかないため息が自然と口から漏れてくるのだった。
 細くしなやかな指で胸元に触れてみる。
 冷たい指先の感触に一瞬身体がピクっと反応する。
 そのまま体の線に合わせて、指先をゆっくり下へと這わせていく。
 そこには、『慶太』時代には決して存在しなかったものがある。
 形の整ったCカップのバスト。

 慶花はさらに指を下に這わせていく。
 そこにはバストの美しい膨らみとコントラストを示すウエストの曲線があった。
 その括れたウエストラインは丸みを帯びたヒップラインへと繋がり、ベビードールの裾から露出する、脂の乗った太股へと続く。
 さらにその流れは小柄な身長には似つかわしくない、長く細い脚のラインを形成して終わる。
 全体を見れば、決して「豊満」とは言えないが、明らかに魅力的な女性の曲線美がそこにはあった。隠そうにも隠しきれない女性としての特色がそこにはあった。 

 鏡を見つめる慶花の目にはうっすらと涙が滲んでいる。
 その涙の源は「もう後戻りはできない」という諦観と、「なぜこんな選択をしてしまったのか」という後悔の念とが複雑に混じり合ったものだが、今この瞬間は後悔の念の方が勝っていることを慶花自身も認識しているに違いない。

 今日の午前中、慶花はずっと拒否していた妻へのメッセージ映像の撮影に応じた。
「慶花として生きることを決断し、変わり果てた自分の姿を妻にだけは見せたくはない。」
 それが、これまで拒否をしていた理由だった。
 そんな慶花が撮影に応じたのは瑞穂の説得があったからに他ならない。

「慶花になったことなんてこと言う必要はないの。メイクも落として、髪型もできるだけ男性的にして、カメラの前に座ってもらうわ。だから心配している妻のためにもカメラに向かって語りかけなさい。そしてできる限り明るく振る舞うこと。それが妻に対する、『夫』のせめてもの心遣いよ。」
 それが瑞穂の説得の言葉だった。慶花はその説得に応じた。

 慶花の心に後悔の念がわいたのは、撮影の際に常田と後藤が自分に送る視線がその原因だった。
 撮影時に、彼らが最も気にしていたことは、慶花の身体の変化を目立たないように撮影するには、どうしたらいいかという点だった。
 彼らは、取りあえずゆったりしたものなら体の線も隠せるだろうとサイズ違いの服を数着用意した。だが不自然な印象を与えることなく、体の線を隠せる服はとうとう見つけることができなかった。 
 そこで最終的には首から下が映らないように工夫するというやり方に落ちついたわけだが、慶花にとって問題だったのは、試着を繰り返すたびにランジェリー姿の自分を見る常田と後藤の視線にこれまでの人生で味わったことのない異様なものを感じ取ったことだった。その射るような視線の奥には確かに情欲の光があった。
(自分は今、男の性の対象にされている)ということを直感した慶花は思わず背中を向け、身体をこわばらせた。男でありながら男の存在を初めて「恐怖」に感じたのだった。それは、自分が強い「男」ではなく、その強さに怯える弱い「女」になったことを思い知らされた瞬間だった。
 もちろん慶花として生きる以上、そのことは納得しなければならない事実である。
 理性的にはその通りなのだが、いざその事実に直面すると自分の選択は誤りではなかったのかという思いがどうしてもわいてきて、慶花を苦しめるのだった。

 慶花はこの2か月弱の間に自分の身体に起こった様々な変化に思いをはせ、深いため息をついた。
(あれは、確かこの部屋に移ってきてから5日目・・・)
 慶花は目を瞑り記憶を整理しようと試みた。
 そして印象的な出来事と共に最初に甦ってきた日付がその日だった。


****************************************


 「慶太」と「慶花」の間で揺れ動いている時には、一時的に止んでいた「美」に対する欲求と強迫観念は、ブロック3の部屋に移動してきた日から再び慶花の心を苦しめ始めた。
 それが3日目には体の変調へと繋がっていき、4日目には嘔吐さえ伴う激しさになっていった。以前の症状よりも数段厳しいものになっているのが慶花にも実感できた。
 そして5日目のカウンセリングの時、耐えられなくなった慶花はとうとう瑞穂に告白した。

 告白を聞いた瑞穂は、この機をチャンスと捉え、慶花を誘導しようと考えたのだった。「強迫観念の源は、自分の理想とする『美』と現実の姿との乖離を埋められないという焦燥感が生み出していると考えられるわ。」
 瑞穂は説得力のある表現で説明した。
「どうすれば・・・なくなるんでしょうか?」
 慶花は真剣な目で瑞穂を見つめた。
「解決策は2通りあるわ。一つは理想の『美』のレベルを下げること。今のようにお化粧と服装だけで模倣できるようなレベルにすることね。」
「で、でも・・・それは・・・」
 瑞穂は慶花が同意しないことはわかっている。
 なぜなら、サブリミナル映像を通じて意識下に植え付けた「美」こそが、慶花の理想なのであり、それ以外の選択ができないよう精神操作がなされているからである。
 もしもその精神操作がされていなければ、慶花自身が自己防衛として無意識の内に理想の「美」のレベルを下げていたかもしれない。

「では、もう一つの方法しかないわね。」
 瑞穂は、じっとこちらを見つめている慶花の大きな瞳を見て、愛らしさとけなげさを同時に感じ取っていた。
「慶花の方がレベルを上げて理想の『美』に近づくという方法以外に何かあるかしら?」
 瑞穂はわざと慶花の方に質問を投げかけた。 
「でも・・・お化粧をいくら上手にしても、お洋服をどんなに着飾っても、どうしても・・・」
「そう。じゃ、慶花とその理想の人とはどこが違うの?」
「そ、それは・・・もう、全部・・・違います。」
「全部?例えば?」
「まず・・・肌の美しさが全然違います」
「ふうん、慶花もだいぶ綺麗だと思うけど・・・それから?」
「髪の毛も・・・もっと豊かで輝いていて・・・目もくりっとして可愛らしくて・・鼻も小さくて、ツンと上向いてるし・・・・唇もふっくらとしてセクシーだし・・・それに・頬だって・・・・」
 慶花の目がきらきらと輝き始めている。まるで自分の将来を夢見る少女のような瞳である。
「ちょ、ちょっと・・・ちょっと待って。確かにお化粧だけで何とかなるレベルのものじゃないわね。残念だけど。」
 慶花の目の光が急にその明るさを失った。
「ねえ、慶花。あなたが本当にその姿を望むなら、整形しかないと思うけど、どう?」
「い、いえ・・それは・・・絶対に、しません。絶対にっ」
 慶花は声を高くして言った。
 慶花はこの段階でも、「慶太」を心のどこかで捨てきれないでいた。
 万が一、「慶太」が心に舞い戻ってきた時に、整形などということをしていたら、取り返しがつかないではないか、という思いがあった。
 だから、自分と理想の女性との違いを瑞穂に聞かれても、身体については一切触れなかったのだ。本心を言えば、最も大きな違いは、豊かで美しい胸と括れたウエスト、そしてふくよかなヒップと長く整った脚だと言いたいところである。でもそれはあえて口にしなかった。言えば整形の話に向かうことが明らかだったからだ。

「そう、では一つだけ試してみる価値のある方法があるんだけど・・・」
 瑞穂は落胆の色を浮かべる慶花の顔をのぞき込むようにしながら、思わせぶりな口調で話を始めた。
「うまくいけば、肌と髪の毛については確実に効果が現れると思うわ。」
「く、薬・・か何かですか?」
「ええ、最近開発された薬で、まだ正式名称はないけど、一応『N1新薬』と呼ばれているものよ。」
「危険な薬・・・ではないんですか?」
「危険? どのような?」
「例えば・・・命に関わるとか・・・?」
「アハハ・・・それは絶対にないわ。」
「副作用・・・副作用はどうですか?」
「現段階では報告はないけど、どんな薬だって使用法を間違えれば副作用はあるものよ。」
 瑞穂は一般論で話を逸らした。
 まちがっても常習性を引き起こす可能性があるなどと口にすることはできないからだ。

「本当に肌と髪の毛には効果が現れるんですね?」
「ええ、それは確実よ。個人差があるけど、恐らく1週間くらいで変化が見え始めるはずよ。」
「そう・・・・ですか。」
 慶花は逡巡した。「N1新薬」使用への期待感と不安感が大きく渦巻いていた。
 そんな慶花の気持ちを察して、瑞穂は決定的な一言を口にする。
「いままでに、私が慶花に嘘を言ったことがある? 慶花に無理矢理何かをさせたことがある? 慶花にとってマイナスになることをしたことがある?」
 
 もしもその場に全知全能の神がいたなら、この言葉を臆面もなく口にする瑞穂という女に鉄槌を下したに違いない。だが、残念ながらその場には瑞穂のことを信頼しきっている「慶花」という哀れな人物しかいない。
 そんな慶花が「N1新薬」使用に関する、本人同意書にサインをしたのは、ある意味当然とも言えた。


 慶花が「N1新薬」による身体の変化の兆候に気付いたのは、経口による服用を始めて10日程経過した日のことだった。
 朝シャワーを浴びている時に、肌を打つ水滴の感触が微妙に違っている気がしたのだ。
 それが水流の変化によるものなのか、自らの肌の変化によるものなのか、慶花にも判断はつかなかった。ただ、その感触が心地よいものであったのは確かである。
 水滴を拭き取った後、バスタオルを胸高に巻いてバスルームを出た慶花は、そのまままっすぐに姿見の前に立ち、バスタオルを取った。
 特に何かが変わったという印象は受けない。
 瑞穂の話では、肌と髪の毛に良い効果があるのは確実だということだったので、とりわけ肌の色やつやに注目してみた。
 やはり気のせいだ、と慶花は思った。肉眼でわかるような変化はどうしても捉えられなかった。
 それでも、やはりどこかが変わっているような気もする。
 慶花は期待と落胆が入り交じった気持ちで、もう一度タオルを胸高に巻いた。


 それからさらに5日後、今度ははっきりとした形で変化を認識することとなる。
 シャワーを済ませて、ドレッサーの前でメイクを始めた慶花は顔色が少し変わっているような気がした。それは病的に顔色が悪いという意味ではない。輝きと白さが増した印象なのだ。
 慶花はこみ上げてくる期待感の中で、いつものファンデーションを丁寧に伸ばしてみた。 やはり受けた印象に間違いがないことはすぐにわかった。
 コンフレクション(顔色)を合わせたお気に入りのファンデーションが合わないのだ。
 慶花は試しに一段明るいファンデーションに替えてみた。
 今度は違和感なく肌の色に馴染んでいく。
 しかも冷静に鏡を見てみると、肌の肌理にもはっきりとした変化が感じ取れるし、弾力の違いもあるような気がする。
 慶花はもう一つの変化の現れを期待して、髪の毛を凝視した。
 色艶やハリといった髪質に関わる変化は認識できなかった。ただ、幾分伸びるのが早くなったような気がした。

 その日のカウンセリング時に、変化が起こり始めているらしいことを瑞穂に告げた。
「あら、私はもう5日くらい前から気付いていたわ。慶花の肌の違いにね。」
 瑞穂はこともなげに言った。
 慶花はその言葉が嬉しかった。自分の感じていたのが単なる期待感からくる幻想ではなく現実のものだとういう証でもあったからだ。
「それに、髪の毛だって変わってきているわ。気付かない? 色艶もハリも出て、とても綺麗になってるわ。もう、そういうことに気付かないとダメよ。女の子なんだから フフフ・・」
 瑞穂のからかい混じりの言葉に慶花は顔を赤くして俯いた。


 それからの慶花は毎朝鏡の前に立つのが楽しみになっていった。
 ひとたび変化の端緒を現実のものと捉えた後は、小さな変化も見逃さなくなっていった。 そう言えば、不思議なことに「N1新薬」の投与を始めてから、「美」への強迫観念から来る身体の変調はほとんど起きなくなっていた。
 そのことを慶花はあえて瑞穂には話してはいない。
 恐らく、わずかずつではあるものの自分の理想の「美」に近づいて行っているという思いが焦燥感を和らげてくれているのだろう、と自分なりに解釈していたからだ。

 しかしその解釈は一面を捉えているに過ぎなかった。
 では慶花の焦燥感を和らげてくれた最も大きな要因は何だったのだろう。 
 それは「N1新薬」の主成分であるエストロゲンの作用によるものだった。
 本来、女性という生き物は「その他大勢のなかの一人」になることを本能的に嫌う。
他の女性が同じ服を着ているだけで不快感を感じるなどという心理はその表れでもある。 
 つまり自分は常に特別な存在であるという意識が働くのであり、それ故に誰もが競うように美を求め、特別な存在になることを目指す。
 そして、その「美」を求めたいという心理状態の時には、他の者はほとんど目に入らない。自分がすでに特別な存在となっているからである。
 だから、たとえ一歩ずつでも美のレベルが上がっている間は、焦燥感はないのである。
この女性特有の心理はエストロゲンという女性ホルモンの成せる業であり、男性には理解し難い心理でもある。
 もし慶花にその心理が働いているとするならば、エストロゲンの影響が、すでに内部にまで到達している証でもあった。
  

「N1新薬」投与から約1か月後のある日、慶花はその後の運命を大きく左右する決断をしてしまう。
 日に日に、自分の理想の「美」に近づいていることに言いようのない幸福感と陶酔感を感じ始めていた慶花は、瑞穂に投薬量の増加を相談した。
 相談を受けた瑞穂は内心両手を叩かんばかりに喜んだが、無論それを顔に出すことはせず、表面上はむしろ慶花の身体を慮る姿を演出した。

「慶花、あなたは毎日綺麗になってるわ。それで十分でしょ? 焦ることなんてないじゃない。」
「いえ・・焦りとかじゃないんです。僕、毎日楽しいんです。綺麗になっていくことが幸せなんです。もっとその幸福感を味わいたい・・・それだけなんです。」
 慶花はいまだに、一人称として「僕」を使っていた。
 瑞穂に指摘されて、一時的に「私」や「慶花」を使うこともあるが、すぐにまた「僕」に戻った。また、特別に女性言葉を使うわけでもないし、男性としてはもともと高めだとは言え、声のトーンを不自然に高くして話すこともしない。
 これは慶花の中に微かに残る「慶太」の理性がもたらした行為であるのは言うまでもない。
 だが瑞穂には、目の前にいる魅力的な美しい女性の唇から「僕」という違和感のある言葉がついて出てくる光景は、倒錯的な映画のワンシーンにさえ思えてくるのだった。

「でも、この薬はまだ開発されて間もないので臨床データもあまり豊富ではないの。もしも投薬量を増やして悪影響が出ないとも限らないわ。」
「悪影響って、例えばどういうことでしょうか?」
「まず最も顕著なのは、脂肪の増加、それから筋力の低下。精神的な面では攻撃性の減少、感情の起伏が大きくなる・・・といったところかしら。」
 瑞穂は肉体と精神の両面での「女性化」という単語は一切使わなかった。それを巧みな単語の言い回しで代用させたのである。
「僕は・・・元々やせすぎているから脂肪が多少ついてもかまわないし、筋力が低下しても、それほど気にしない。それに攻撃性だって、会社経営者に戻れるわけじゃないんだから、むしろそんなものがあったら邪魔かもしれない。感情の起伏はちょっと気になるけど、今の自分の精神状態なら全然心配する必要はないと思う。 だから先生、やはり薬の量を増やしてください。お願いします。」
「それでも私はあまり賛成しないわ。薬に依存しすぎるのはね。」
「わ、わかってます。依存しすぎないように気を付けますから、お願い、先生、お願い。」
 慶花は涙まで浮かべて哀願した。
 瑞穂は潤む瞳を見つめながら、心の中で呟いていた。
(もうこれで全部、説明したわよ。それでも投薬量を増やしてくれと頼んだのは、あなたよ、慶花。わかっているわね?フフフ)
 瑞穂は、「N1新薬」使用に関する本人同意書に、3点の但し書きを加え、慶花の前に差し出した。
「わかったわ。あなたの意志を尊重しましょう。今日からは経口投与に加えて皮下注射による投与も加えます。それでいいわね?」
「は、はい・・・お願いします。」
 慶花の涙で潤んだ目に、ようやく喜びの光が宿った。
 慶花は同意書に加えられた但し書きには一切目もくれずにサインをした。
 一刻も早く幸せに浸りたいという一心だった。
 
 但し書きには、
 1,「N1新薬」使用による、女性化、及び薬物依存症の危険性について説明済み 
 2,1の説明を受けた後、本人の意志により使用量の増加の要請あり
 3,身体の異変についての責任は本人のみにあり、施設側には一切責任がない。
 とあった。 
  
 
 投薬量増加の効果はすぐに出始めた。
 肌の白さと肌理の細かさは、もはや少し遠目からでも認識できるレベルに達していたし、髪の毛の艶とコシ、そして豊かな質感はどんなヘヤスタイルにも対応できそうな印象である。
 顔つきは少し優しげな印象に変わり、肌の透明感と合わせて見ると、たとえノーメイクでもほとんどの人は慶花を女性と認識したであろう。
 身体全体にうっすらと脂肪がのったような柔和さが加わり、今まで皮膚を通して見えていた骨の一部が皮膚の中に埋もれている。
 慶花はそれを瑞穂の言う「脂肪の増加」だと思ったが、慶花自身はそれはお腹周りに来るのだろうと勝手に想像していた。そしてそうなった時にはダイエットでもすればいいやくらいに考えていたのである。
 
 ところが「脂肪の増加」はある時点から予想のしていなかった形に変わっていった。
 お腹周りは最初にうっすらと脂肪がのって以来、全く増えていく様子がない。だがそれを挟んだ上下、つまり胸の周りと、腰回りからお尻にかけての部分の脂肪の増加が止まらないのだ。

 慶花はある夜、バスルームから濡れた身体のまま飛び出した。 
 胸の深さまでぬるま湯に身体を沈めていると、そこに今まで意識したことのない水の描くの線が見えたのだ。両脇の下から始まるその線は一度前方に丸みを作り、頂点を境に胸の中央に戻ってきていた。これは慶花の胸に、二つの小さな丘状のものが出現していることを意味していた。それが何を意味しているのか、さすがの慶花もすぐにわかった。
 
 慶花は濡れた体を鏡に映してみた。
 そこには、それまでに気付くべきだった様々な変化が具現化した形で現れた。
 すこし太ってふっくらとしたと思っていた下半身は、紛うことのない女性のヒップラインを形成している。
 その上方に向かうラインは、ウエストにしまった括れを作り、胸の二つの小丘へと続く。
 一方、下方に向かうラインは、脂肪がほどよく乗った太股へと流れていく。
 全体を通じて、直線がほとんどなく曲線のみで描き出されているようなシルエットを、慶花は息を飲んで見つめた。

 慶花は視覚によって感じ取った変化を、触覚で再確認しようとゆっくりと指先を身体全体に這わせていった。
 指先の感覚は視覚より鋭敏だった。
 視覚で捉えた曲線が、触感で伝わってくることで、より立体化したイメージが慶花の頭の中浮かんできたのだった。
 右手の細く長い指先が、左の胸の小さな丘に触れる。そして伸ばした爪の先が小さな突起に触れる。ピクッという、それまでに経験したことのない微かな電流が駆け抜ける。
「アッ・・・」
 慶花の口から小さな吐息が漏れた。それは慶花自身も始めて耳にする高い女性的な響きを持っていた。
 
 慶花は躊躇いながら、自らの股間に手をのばした。
 そこには確かに、慶花が本当は「慶太」であるという証が存在していた。
 ただ、存在はしていたのだが、「慶太」自身がコンプレックスを抱いていたそのサイズはさらに一段と矮小化していた。
 慶花はハッとした。
 今まで忘れていたことだが、最後にエレクトした時のことが思い出せない。
 少なくとも「N1新薬」投薬後に絞れば、一度もなかったような気がする。
 背筋を冷たいものが走った。

 慶花は心を落ち着けようとベッドに入り目を瞑った。けれど、全く眠ることができない。
 自分の身体に起こっている変化を何度も頭の中で整理しようとした。
 だが、自分に都合のいいように、あれこれ理由付けをしてみても、胸の膨らみ、ウエストの括れ、ヒップの丸み、ペニスの矮小化・・・・それは、どれもが身体の女性化を意味しているのは明らかだった。
「美」のステップアップに喜んでいたため、意識していなかったが、そもそも肌が白く肌理細かくなったのだって、髪が豊かな色艶とコシを持つようになったのだって、別の見方をすれば身体の女性化ではないか。

 慶花の心にある仮定が浮かんだ。
「もしかして、女性ホルモン?」
 信じられない、いや信じたくない仮定だった。

 ベッドから起きあがった慶花は「N1新薬」投与の本人同意書の写しに目を通した。
 そこには新薬の主成分が「高濃度エストロゲン」であることが明記されていた。
「エ、エストロゲン・・・って確か・・・」
 慶花は「エストロゲン」という名称には聞き覚えがあった。ホルモンに関する名称だったような気もする。ただ、それが女性ホルモンの別称であるとは、瑞穂の手書きの但し書きを見るまでは確信できなかった。

『N1新薬使用による、女性化・・・薬物依存症・・・』  
 信じがたい単語の連続に目の前が真っ暗になった。
「仮定」が「確定」に変わった。
 信頼していた瑞穂に騙されたという思い、そして進みつつある身体の「女性化」への不安が慶花の目を涙で曇らせた。
 
 慶花はめったに使ったことのない、緊急連絡番号で瑞穂を呼び出した。
 数回の呼び出し音の後、落ちついた瑞穂の声が聞こえてきた。
「慶花ね? どうしたの、こんな時間に?」
「せ、先生・・・僕を・・僕を騙したんですかっ?」
 慶花はそこまで言うと、こみ上げてくる嗚咽にかき消されて声が出ない。
「騙したって?どういうこと? もう少し落ちついて説明して。」
 瑞穂の声には全く動揺の様子が感じられない。
 しばらくの間、瑞穂の冷静な声と慶花の嗚咽のみが交錯する。
 瑞穂は二言三言声をかけた後で、詳細は翌朝のカウンセリングの際に話をすることを約束して電話を切った。
 
 結局、慶花はエストロゲン、つまり女性ホルモンのことを口に出す勇気は出なかった。
 冷静な瑞穂の口から真実が語られるのを聞くのが、急に怖くなってきたからだ。
 (とにかく、もうこれ以上薬を飲んではいけない。今やめればすぐに元に戻るかもしれないし。)
 慶花は心の中で呟くと、テーブルの上に置かれたN1新薬の錠剤をすべてトイレに流した。

 
 その後、一睡もできないまま朝を迎えた慶花は、意識をはっきりとさせるためにいつもよりも熱いシャワーを浴びると、再びベッドに入り時間の来るのを待った。
 いつものようにシャワー後まっすぐにドレッサーの前に立たなかったのは、慶花の強い意志だった。
 夕べ眠れないままベッドの中で一つの決断をした。
 それは、メイクとフェミニンな服との決別だった。
 それにより進行していく女性化を食い止め、もとの身体に戻すことも早まるのではないか、と考えたのだ。

 慶花は、白いコットンのショーツ、白い無地のTシャツとシンプルなスタイルのジーンズを選んだ。いずれもレディスではあるが、いつもの零れんばかりのフェミニンさとはかけ離れた姿だった。
 だが、身体の変化に気付いた今、Tシャツの胸の小さな膨らみが妙に大きく感じられる。
 慶花は深いため息をついた。
 時計を確認した。カウンセリングの予定時刻まで、まだ一時間以上あった。

 もしもこの時、時間に余裕がなければ、慶花はセレクトしたボーイッシュな姿でカウンセリングを受けていただろう。
 しかし最終的にカウンセリングルームに現れた時の慶花の姿は、ミディアムレイヤードのウィッグにフルメイク、そしてミニ丈のピンクシフォンワンピースという驚くほどフェミニンな出で立ちだった。

 慶花はどうして決断を覆したのだろうか?
 それは極めて簡単な理由だった。
 ノーメイクでボーイッシュな姿を鏡に映した時、あの「美」に対する強迫観念が襲ってきたからである。
 毎日「美」を磨くことに集中していたためにすっかり忘れかけていた、あの苦しみが舞い戻ってきたのだ。
 慶花はそれでも必死に耐えようとした。深い深呼吸をしながら、悪寒、冷や汗、頭痛といった体調の変化をやり過ごそうとした。だが、それは結局は徒労に終わることとなった。

 ショーツをピンクレースのタンガに替え、ワンピースを身につけ、ドレッサーの前に座った時には、慶花の気持ち決まっていた。
(この強迫観念から逃れることは絶対にできないんだ。フルメイクもフェミニンな服装も自分にとってはもう切り離せないものなんだ。)
 慶花の心の中には、はっきりとした諦観が芽生えていた。
 
 フルメイクを終え、ウィッグを着け、姿見の前に立った。
 いつものように最終チェックをするためだ。
 頭の先からつま先までミスのない完璧な仕上がりだった。
 慶花の目指す、理想の「美」にまた一歩近づいている印象だ。

 しかし、どういうわけか、その日の慶花には幸福感も安堵感も沸いてこない。
「美」に対する強迫観念は消えているのに、頭痛と動悸が止まらない。
 その不調はさらに悪寒から嘔吐感へと繋がっていった。
 慶花は自分の身体に何らかの変化が起こっているのに気付いた。
 時計を確認すると、カウンセリングの時間が迫っていた。
 慶花は原因不明の体調変化に耐えながらカウンセリングルームに向かった。


「どうかしら? ちょっとは落ちついた? 昨日の電話ではだいぶ興奮していたみたいだけど。」
 瑞穂は、慶花に着席を促すと、できるだけ冷静な口調で話し始めた。
 慶花の息づかいがいつもと違っているのはすぐに気付いたが、そこにはあえて触れなかった。
 実は、瑞穂には昨夜の段階で、慶花の口からどんな話が出てくるのか、ある程度予想はついていた。「騙した」という言葉が、「N1新薬」に関することだろうというのは容易に推察できたからである。

「あ・・・あの・・・薬は・・・女性ホルモンだったんでしょ?」
 慶花はわずかな沈黙の後に、思い切って口を開いた。
「ん?そうよ。それがどうしたの?」
 瑞穂の答えは意外な程あっさりしていた。その口調には、(そんなこと、あなたも当然知っているでしょ?)といったニュアンスが含まれていた。
「な、なぜ・・・先生は・・・それを説明してくれなかったんですか?」
「エストロゲンが主成分であることは『本人同意書』にも記されているはずだけど?」
「そ、そんな・・・・だって、先生は・・・エストロゲンが女性ホルモンだなんて言わなかったじゃないですかっ」
「だったら、なぜサインなんかしたの?疑問があればサインなんかしないことよ。」
「そ、それは・・・・」
 慶花は口ごもった。
 確かに瑞穂の言う通りだった。
 新薬の投与を最終的に合意したのは、他の誰でもない自分なのだ。
 それに、瑞穂を責めたところで、すでに投与されてしまった新薬を取り除くことなどできないのだ。
  
「でも・・・もうこれ以上の薬を飲むのは・・・やめますから・・・」
 慶花は諦観を滲ませながらも、精一杯の決意の言葉を口にした。
 瑞穂は、一瞬驚いたような表情ををしたが、すぐに冷静さを取り戻した。
「ええ、それはあなたの自由よ。私たちはあなたが薬を欲しがるなら投与するし、いらないなら投与をやめるだけ。」
 慶花は小さく頷くと、そのまま俯いて目を閉じた。
 数分前から動悸と悪寒が一層激しくなっていたのである。

「ん?どうしたの?身体の調子でも悪いの?」
 瑞穂は、黙ったまま俯いている慶花の様子に異変を感じ取り、心配そうな声で言った。
 慶花は今起こっている体調の異変について話すことを躊躇った。
 もしもこの異変も新薬の影響だったらと考えると言い出す勇気が沸かなかったのだ。
だが、そんな躊躇いも長くは続かなかった。
 動悸と悪寒に加え、いったんは消えかけていた冷や汗と頭痛も加わってきたのだ。
 慶花には迷っている余裕はなかった。

「せ、先生・・・僕・・・身体が・・・今朝から 変なんだ・・・」
 ファンデーション越しにでも、慶花の顔色が悪くなっているのがわかった。
 瑞穂はその様子から、すぐに「あること」に気付いた。
「ねえ、慶花。あなた今朝、お薬飲んだ?」
 慶花は大きく2回首を振った。
「わかったわ、原因が。あなた、すでに薬物依存の状態に入っているの。」
「や、薬物・・・依存?」
「ええ、つまり『N1新薬』を服用し続けなくてはいられない身体になってしまっているということよ。」
 あまりの言葉に慶花の大きな瞳がさらに大きく見開いた。
「だから、あれほど言ったのに・・・。投薬量を増やすと薬物依存症になる可能性があるって・・・。」
「で、でも・・・先生、このまま薬を飲まなければ、いつかは治るんですよね?そうですよね?」
 慶花は涙声で瑞穂の同意を求めた。
「ええ、それはそうね。このまま『N1新薬』の投薬を止めれば治るはずよ。」
 慶花の顔に一瞬光が差した。
「そ、それと・・・今までの・・・あの・・・身体の変化とかも元通りになるんですよね?」
 慶花が躊躇いがちに質問した。
「身体の変化?それはどういうことかしら?」
 瑞穂は興味深げな視線を慶花の身体に向けた。
 もちろん瑞穂には慶花の肌質や髪質の変化などといった「N1新薬」の効果は感じ取っていた。だが、服に覆われた部分の変化については完全に把握しているわけではなかったのだ。

「とにかくちょっと見せてみて。見てみなければ何とも言えないから。」
 瑞穂の言葉に慶花は一瞬躊躇いを見せたが、最終的には嫌々ながらも従った。
 慶花は、カウンセリングルームの隅で背中を向けながらワンピースを脱いだ。
 瑞穂の目に白く肌理の細かい背中が飛び込んできた。以前の、細く薄い質感を伴った少年の背中に、うっすらと脂がのり、丸みを帯びた質感に変化しているのがわかった。
「ちょ・・ちょっと・・こっちに来て、良く見せて。」
 瑞穂の言葉は、興奮と期待で震えていた。
 慶花は胸の前で両腕を交差させると、俯いたままゆっくりと瑞穂の前に歩み出た。
 覆うもののないウエストからピンクレースのタンガに至る線は、すでに曲線を描き始めていて括れらしき部分を形成しつつある。
 タンガが包むヒップとそこに繋がる太股の質感は以前のやせぎすの少年のものではなく、ふっくらとした肉感をも感じさせるものだった。

 瑞穂は胸が高鳴った。慶花の両腕に覆われた胸の部分を早く目にしたいという焦りが冷静さを奪った。
 瑞穂は慶花の両腕を強引に引き離した。
「あっ・・・」
 慶花は、いつもの瑞穂には見られない感情的な行動に一瞬戸惑いはしたが、抵抗はしなかった。
 瑞穂の目に、二つの小さな小山が飛び込んできた。
 それは乳房と称するにはあまりに儚いものではあったが、その部分が女性特有のものであるということは誰の目にも明らかだった。
「か、可愛いわ・・・」
 瑞穂の手のひらが慶花の小さな膨らみの上をなぞるように動いていく。
「せ、先生・・・」
 慶花の口元から微かな吐息混じりの声が漏れる。 
やがて指先が小山の中心に向かい、小さな突起に触れる。
「アッ・・・」
 慶花の背中に微かな電流が走った。
「フフフ・・敏感なのね?」
 瑞穂の顔にいつしか悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。

 やがてひとしきりの「検査」を終えた瑞穂は慶花に服を着るように指示し、ソファに座り直した。
「せ、先生・・治りますよね? 薬止めれば、元の身体に戻りますよね?」
 慶花はワンピースに袖を通しながら尋ねた。
「ええ、治るわ。薬を止めれば、また男性ホルモンの分泌によって戻るはずよ。」
 不安げだった慶花の顔にはっきりとした安堵の色が浮かんだ。
「ただ、依存症からの脱却は思っている以上に大変なことよ。この施設には薬物依存症患者を扱う設備がないから、すべては自分の力でやらなくてはならないわ。あなたにそれができる?」
「は、はい・・・できる・・・と思います。」
 慶花にはそう答えるより他に方法はなかった。これ以上の身体の女性化を食い止めるには「N1新薬」からの決別が絶対条件だからである。
「それに・・・あなたが理想の美しさを手に入れるために始めた薬を、自分の意志で止めることができるの? 『美』への強迫観念と闘うことができる?」
「せ、先生は・・・僕に薬を続けさせたいんですかっ?」
 慶花はわずかながら声を荒げて言った。
「いいえ、そんなことはないわ。この施設ではすべて自由意志が最優先されるから、あなたに薬を続ける意志がなければ、強制はされないわ。」
 瑞穂はそう答えたが、内心では
(もちろん、薬を止めさせなんかしないわ。だって、慶花、あなたの身体はもう女の子になり始めているのよ。待ってなさい。すぐに本物の女の子にしてあげるから。フフフ)
 と呟いていた。 


 カウンセリングを終え、一人になった瑞穂はこれからの慶花の女性化への過程に思いを馳せながら、一人静かに微笑んでいた。
 瑞穂には慶花が「N1新薬」から脱却することなど不可能だという確信があった。
 その最大の要因は、慶花の心の中に「美」への強迫観念が植え付けられていることである。そもそも、その意識があったからこそ「N1新薬」の使用を選択したのだし、その強迫観念は、たとえ一時的に薬を止めたとしても、消えることはないのである。つまり潜在的にはいつでも薬を使用する可能性を秘めているということだ。
 瑞穂は慶花にその強迫観念をもたらしたサブリミナル映像による精神操作が、極めて有効だったことを再認識していた。
 もう一つの要因としては、まだ初期段階とは言え、確実に薬物に対する「禁断症状」が出ている点である。
 薬物依存からの脱却には、本人の意志と共に、周囲の協力が絶対に不可欠である。
 例えば、禁断症状が出て薬物を欲しがる人間に、それを渡さないという当たり前の行為を周囲の人間が行わなければならない。
 だが、この施設ではその当たり前の行為が行われることはない。なぜならすべては「Nランク」者の自由意志が尊重されるからである。従って、仮に慶花が理性では薬からの脱却を望んでいても、禁断症状のために、一言「薬が欲しい」という言葉を口にした途端、瑞穂たちから薬が投与されることになってしまうのである。
 つまり慶花には「N1新薬」の使用を止めようにも止められない要素があまりに揃いすぎているのだった。瑞穂の確信の裏付けもその点にあった。

 
 翌日から、慶花の禁断症状との壮絶な闘いが始まった。
 日に日に増していく不安感、焦燥感は激しい身体の変調をもたらした。
 悪寒、冷や汗、手足の震え、頭痛、嘔吐感・・・それらが不定期に襲ってきた。
 食欲は全くなくなり、無理して口にした食事もすぐに戻してしまうという有様だった。

 しかし慶花の意志は強かった。苦しみにも必死に耐えた。
 そして迎えた5日目の朝、慶花は前日よりわずかながら禁断症状が和らいでいるのを感じ、そこに薬物依存症からの脱却の兆しを確信した。
(もう少し・・もう少しで確実に抜けられる。)
 慶花は心の中で強く念じた。

 だが、7日目の朝に慶花の取った無意識の行動が、それまでの苦労をすべて水泡に帰すことに繋がったのだった。
 前日よりさらに気分も良くなっていた慶花は、いつものようにシャワーを浴びると、一週間ぶりにドレッサーの前に座った。
 実は、この一週間は意識して鏡の前に立つのを避けていた。
 鏡の前に立てば、メイクやフェミニンな服への抑えられない欲求が出て、それがまた「N1新薬」を求める欲求へと繋がっていくような気がしたからである。
 もちろん苦しい禁断症状との闘いで、ほとんどベッドから離れられなかったということもあるのだが。

「ひ、ひどい・・・この顔・・・」
 一週間ぶりに見る自分の顔は、あまりにやつれていて、顔色も悪く、病的にすら見えた。
 慶花は無意識の内に、化粧水に手を伸ばし、スキンケアを始めてしまった。
 この何気ない行動が、取り返しのつかない大きな結果に繋がっていくことなど予想だにしていなかった。

 一通りのスキンケアを終えると、改めて鏡に映る自分の顔にじっと目を凝らした。
 あの艶のある肌理の細かい美肌は戻ってこない。髪の毛も艶を失っている。
 もしもこの時の慶花の潜在意識に、サブリミナル療法を通じて植え付けられた「美」への強迫観念がなければ、きっと冷静な判断ができただろう。
(薬物の禁断症状が抜け、しっかり休養と栄養を取ったなら、いずれ肌も髪も回復するはずだ)という判断である。
 
 だが、残念ながら慶花にその冷静さはなかった。
 基礎化粧を終えても一週間前の姿を取り戻せないことに、言いようもない不安を覚え、思わずファンデーションに手を伸ばした。
 やがてその動きは、アイブロウペンシル、マスカラ、アイライナー、アイシャドウ、チーク、口紅と続くフルメイクへと繋がった。
 しかしフルメイクを終えても慶花の焦燥感は消えなかった。
 鏡に映る顔は一週間前の自分の姿には遠く及ばないと思ったのだ。

 この印象は慶花自身の焦燥感が生み出した誤解だった。
 肌や髪に疲れが現れていたのは確かだが、それは数日の休養で回復できるレベルであった。またフルメイクに仕上がった慶花の容貌は、傍目から見れば十分魅力的な美しさを保っていたのである。
 だが、「美」への強迫観念があり、それまで少しずつでも理想の姿に近づいていた慶花にとって、ほんのわずかな後退も許容することができなかったのである。

 慶花の心に不安感と焦燥感が大きなうねりとなって襲ってきた。
 同時に激しい動悸が起こり、悪寒が全身を走った。
 慶花は深く深呼吸をしようとしたが、肺深くまで息を吸うことができない。
 やむを得ず、細かい呼吸を繰り返したが、それがかえって動悸を速めているようにも感じられた。
 慶花はとにかく苦しさから逃れようと、ベッドに横になって固く目を閉じた。 
 少しずつ身体の位置を変えながら、楽になれる体勢を模索した。 
 その間も強迫観念と身体の変調は断続的に襲ってくる。
 
 だが、慶花にとって最悪だったのは、この体調の変化に誘発されたのか、消えつつあった薬物依存による禁断症状が呼び覚まされたことだった。  
 冷や汗と手足の震え、嘔吐感が以前より大きな力で押し寄せてきたのだった。
「く、薬・・・薬が・・ほしい」
 慶花は、思わず口をついて出た独り言にハッとした。
 首を横に何度も振り、自分の言葉を打ち消そうとした。
(ここで、負けてはダメ。もう少しの辛抱なんだから・・・・絶対に負けてはダメ)
 理性の声が脳裏に響いた。

 理性と本能の葛藤はその後1時間ほど続いた。
 そして、緊急連絡を通じて瑞穂に訴えた時には慶花の意識は半ば失われていた。
「せ、先生・・・お薬を・・・お薬をください。もう・・・これ以上は・・耐えられません・・・お願いします・・・」
 慶花の涙ながらの哀訴だった。
 本能が理性を打ち破ってしまったのである。


「N1新薬」の再投与は皮下注射の形で行われた。
 表向きは、経口投与よりも即効性があるという理由だったが、真の理由は濃度を高めることができるということだった。
 現にこの時瑞穂が与えた「N1新薬」の投与量はこれまでで最大の量だった。
 もちろん薬物依存の状態をできるだけ早く固定化してしまいたいという狙いがあったからであるが、慶花にはそんな裏の意図などわかるはずもなかった。
 ただ、注射を打つ際、瑞穂の見せた微かな笑みに、何とも言えず不気味なものを感じたのは確かだが。

 新薬投与の効果は驚異的だった。
 それまでの苦しさがまるで潮を引くように消えていった。
 だが苦しみから解放されると、次に慶花の心を襲ってきたのは、薬を摂ってしまったことへの激しい後悔の念だった。
「ど、どうして・・・薬を打ったんですかっ? なんで拒否してくれなかったんですか?僕が・・・僕が薬を止めようとしているのは知っているでしょ?」
 慶花は瑞穂の目を睨み付けながら言った。
「それは無理な相談ね。ここではすべて自由意志に基づくと言ったはずよ。あなたの方から要求があったのでそれに従っただけ。それに『N1新薬』使用に関する本人同意書は今でも有効なのよ。」
「そ、それじゃ・・これからも僕が禁断症状に負けて薬を欲しがったら・・・・」
「ええ、与えることになるわね。それが嫌なら口に出さないことね。」
 瑞穂は慶花の言葉尻にかぶせるようにして言った。
「わ、わかりました・・・もう頼みません。僕一人の力で何とかします。もう二度と薬が欲しいなんて口に出しませんからっ・・」
 慶花は吐き捨てるようにして言った。
 それはともすれば折れそうになる自らの気持ちを鼓舞する思いもあったのかもしれない。

 だが、その力強い言葉とは裏腹に翌日も、またその翌日も、理性が本能を打ち負かすことはできなかった。
 もちろん皮下注射による投与量が少しずつ増えていたことは慶花には全く知らされなかった。
 慶花の心にはいつしか諦めの気持ちが沸いてきていた。
 いくら薬物依存から脱却をしようとしても、一人の力ではどうしようもない。
 本能の圧倒的な力には抗う術もない。
 慶花は自分の無力さを痛感し、涙したが、瑞穂からの定期的な投与の提案を拒否することはしなかった。
(どうせ、僕が元の職場に戻ることはできないんだ。だったら、元通りの身体に戻ることなんて必要ないじゃないか。こんな苦しい思いをするくらいなら、楽しい道を選んだ方がずっといい。)
 慶花は自らにそう言い聞かせると、瑞穂の目の前で与えられた錠剤を飲み込んで見せた。

 その後、慶花への「N1新薬」投与量は、一日当たり、胸部と臀部への皮下注射を各一本ずつ、そして朝夕2回の錠剤服用と定められた。
 一週間ほどの中断期間があったからなのか、再度服用が始まると、その効果にはめざましいものだった。
 肌の肌理はすぐに回復し、透明感のある白さと相まって輝きさえ発するようになった。 髪の毛も元の艶とコシを取り戻し、伸びるペースも戻ってきたように思える。
 この分で行けばウィッグの力を借りなくても済むようになるのもそう遠い先ではないだろう。もちろんその前には施設内のヘアーサロンで美しくセットする必要はあるが。
 
 しかし効果は首から上だけに現れたわけではない。
 身体全体に柔らかな丸みのある質感が増す一方で、手足のか細さがより一層目立ってきたように思われる。
 身体のシルエットで見た場合には臀部と太股の肉付きと共に、小丘程度だった胸の盛り上がりが日を追う毎に存在感を増し、左右の小山のそれぞれが片手に余る豊かさに達していた。
 バストとヒップの豊かさに比べてウエストの薄さは相変わらずで、そのためにはっきりと「括れ」と認識できるものに変わっていた。

 慶花は日に日に変化していく自分の身体に戸惑いながらも、いつしか鏡の前に立つことが苦ではなくなっていた。いや、むしろある種の幸福感を持って見るようになったと言っても過言ではない。
 慶花には理想の女性美を追求する本能が、精神操作によって植え付けられている。
 それはもちろん容貌だけの問題ではない。身体全体の女性美である。
 とすれば、フェミニンな服装をした時に現れる女性らしい美しいシルエットは、慶花にとって望むべきものであり、決して否定すべきものではなかったのである。
 だから、鏡の前に立って自らの女性らしいシルエットを見た時、以前よりずっと理想に近づいていることが実感でき、そこに一種の幸福感を覚えたのは当然のことだったのである。
 この変化の過程で、慶花は初めて自らの選択でブラの着用を始めた。
 そして、自分の胸の膨らみが「Cカップ」に達していることを、その時初めて具体的な形で実感したのだった。 
 

****************************************

 2か月弱という期間の回想を終えた慶花の目にはうっすらと涙が滲んでいた。
 それは後悔と諦念だけではなく微かな幸福感さえも入り交じった複雑な感情がもたらした涙だった。

(弘美には、僕の気持ちが通じたのだろうか?)
 妻の弘美に宛てたメッセージ映像のことが慶花の頭をよぎった。
 時間的には常田と後藤の二人が弘美への説明を終え、帰路についている頃である。
 その説明そのものがうまくいったのかどうかも慶花には知ることはできない。
 ただ、少なくとも、心配している弘美の気持ちを和らげることはできただろう。
 慶花は心の中で自分にそう言い聞かせたのだった。 

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コメント

§ 慶太がいなくなったのです

[慶太」の存在は、制度としても書類の上も消されました。
肉体も女性化して[慶花」へと変わり、[慶太」自身の意思しか、男の[慶太」がいなくなりました。
もう身も心も完全な女性化すると[慶花」にされてしまうのですね

§ Re: 慶太がいなくなったのです

>森 和正 様
コメントありがとうございます。
ご指摘の通り、これから「慶太」から「慶花」への本格的な変化の過程に拍車がかかっていきます。
今後ともおつき合い頂ければ幸いです。

> [慶太」の存在は、制度としても書類の上も消されました。
> 肉体も女性化して[慶花」へと変わり、[慶太」自身の意思しか、男の[慶太」がいなくなりました。
> もう身も心も完全な女性化すると[慶花」にされてしまうのですね

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サテンドール

Author:サテンドール
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女性化小説なら国内・海外を問わず大好きです。

特に屈辱系・羞恥系・強制系・寝取られ系・立場逆転系・年齢退行系・SISSY系などなど・・・。

happy よりは、unhappy ending が好み。
(ちょっと、性格がゆがんでるのかも^^)

私事ですが、以前某サイトに 
「高野奈緒美」のペンネームで
『ある性転者の告白』という拙い小説を掲載させて頂いておりました。事情があって途中で掲載を止めましたが、その完結編も当ブログでご紹介できればと思っています。

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