FC2ブログ

N/Nプロジェクト 第8章

〔第8章〕

 春には珍しく、美しい星空だった。
 施設3階に位置する「ブロック3」のある一室の窓から、その星空を飽きずにじっと眺めている一人の女の姿があった。
 ホッソリとした華奢な身体が微かな光に照らされて薄暗いシルエットを作っている。
 流れるような繊細な顎のラインが、月の光を受けて一層際だっている。
 肩にかかるミディアムヘアが、女の小さな動きに反応して、時折微かに揺れている。

 女の部屋のドアにはローズピンクで縁取られたネームプレートが張られてある。
 そこには名字もなく、たった2文字・・・・『慶花』とだけ書かれてあった。 
 この部屋こそ、真の性別と本当の年齢を捨てることを余儀なくされた男性『水瀬慶太』が、『慶花』という一人の女性としての人生を歩み始めた部屋であった。
 まるで一人の女子大生が住んでいるかのようなその部屋は、『慶花』のためだけの部屋である。他に住む者はいない。
 つまり、星空を眺め大きなため息をついた女性こそ、『慶花』その人である。

 慶花は姿見の前に移動すると、ホットピンクのレースベビードールに身を包んだ姿を、頭の先からつま先まで幾度も目で追った。
 白い肌とフルメイクの愛らしい容貌とセクシーなベビードールとが作り出す美しさに、慶花は自己満足の笑みを見せる。
 だが、同時にレース越しに映し出される身体の線に目が行くと、後悔とも諦念ともつかないため息が自然と口から漏れてくるのだった。
 細くしなやかな指で胸元に触れてみる。
 冷たい指先の感触に一瞬身体がピクっと反応する。
 そのまま体の線に合わせて、指先をゆっくり下へと這わせていく。
 そこには、『慶太』時代には決して存在しなかったものがある。
 形の整ったCカップのバスト。

 慶花はさらに指を下に這わせていく。
 そこにはバストの美しい膨らみとコントラストを示すウエストの曲線があった。
 その括れたウエストラインは丸みを帯びたヒップラインへと繋がり、ベビードールの裾から露出する、脂の乗った太股へと続く。
 さらにその流れは小柄な身長には似つかわしくない、長く細い脚のラインを形成して終わる。
 全体を見れば、決して「豊満」とは言えないが、明らかに魅力的な女性の曲線美がそこにはあった。隠そうにも隠しきれない女性としての特色がそこにはあった。 

 鏡を見つめる慶花の目にはうっすらと涙が滲んでいる。
 その涙の源は「もう後戻りはできない」という諦観と、「なぜこんな選択をしてしまったのか」という後悔の念とが複雑に混じり合ったものだが、今この瞬間は後悔の念の方が勝っていることを慶花自身も認識しているに違いない。

 今日の午前中、慶花はずっと拒否していた妻へのメッセージ映像の撮影に応じた。
「慶花として生きることを決断し、変わり果てた自分の姿を妻にだけは見せたくはない。」
 それが、これまで拒否をしていた理由だった。
 そんな慶花が撮影に応じたのは瑞穂の説得があったからに他ならない。

「慶花になったことなんてこと言う必要はないの。メイクも落として、髪型もできるだけ男性的にして、カメラの前に座ってもらうわ。だから心配している妻のためにもカメラに向かって語りかけなさい。そしてできる限り明るく振る舞うこと。それが妻に対する、『夫』のせめてもの心遣いよ。」
 それが瑞穂の説得の言葉だった。慶花はその説得に応じた。

 慶花の心に後悔の念がわいたのは、撮影の際に常田と後藤が自分に送る視線がその原因だった。
 撮影時に、彼らが最も気にしていたことは、慶花の身体の変化を目立たないように撮影するには、どうしたらいいかという点だった。
 彼らは、取りあえずゆったりしたものなら体の線も隠せるだろうとサイズ違いの服を数着用意した。だが不自然な印象を与えることなく、体の線を隠せる服はとうとう見つけることができなかった。 
 そこで最終的には首から下が映らないように工夫するというやり方に落ちついたわけだが、慶花にとって問題だったのは、試着を繰り返すたびにランジェリー姿の自分を見る常田と後藤の視線にこれまでの人生で味わったことのない異様なものを感じ取ったことだった。その射るような視線の奥には確かに情欲の光があった。
(自分は今、男の性の対象にされている)ということを直感した慶花は思わず背中を向け、身体をこわばらせた。男でありながら男の存在を初めて「恐怖」に感じたのだった。それは、自分が強い「男」ではなく、その強さに怯える弱い「女」になったことを思い知らされた瞬間だった。
 もちろん慶花として生きる以上、そのことは納得しなければならない事実である。
 理性的にはその通りなのだが、いざその事実に直面すると自分の選択は誤りではなかったのかという思いがどうしてもわいてきて、慶花を苦しめるのだった。

 慶花はこの2か月弱の間に自分の身体に起こった様々な変化に思いをはせ、深いため息をついた。
(あれは、確かこの部屋に移ってきてから5日目・・・)
 慶花は目を瞑り記憶を整理しようと試みた。
 そして印象的な出来事と共に最初に甦ってきた日付がその日だった。


****************************************


 「慶太」と「慶花」の間で揺れ動いている時には、一時的に止んでいた「美」に対する欲求と強迫観念は、ブロック3の部屋に移動してきた日から再び慶花の心を苦しめ始めた。
 それが3日目には体の変調へと繋がっていき、4日目には嘔吐さえ伴う激しさになっていった。以前の症状よりも数段厳しいものになっているのが慶花にも実感できた。
 そして5日目のカウンセリングの時、耐えられなくなった慶花はとうとう瑞穂に告白した。

 告白を聞いた瑞穂は、この機をチャンスと捉え、慶花を誘導しようと考えたのだった。「強迫観念の源は、自分の理想とする『美』と現実の姿との乖離を埋められないという焦燥感が生み出していると考えられるわ。」
 瑞穂は説得力のある表現で説明した。
「どうすれば・・・なくなるんでしょうか?」
 慶花は真剣な目で瑞穂を見つめた。
「解決策は2通りあるわ。一つは理想の『美』のレベルを下げること。今のようにお化粧と服装だけで模倣できるようなレベルにすることね。」
「で、でも・・・それは・・・」
 瑞穂は慶花が同意しないことはわかっている。
 なぜなら、サブリミナル映像を通じて意識下に植え付けた「美」こそが、慶花の理想なのであり、それ以外の選択ができないよう精神操作がなされているからである。
 もしもその精神操作がされていなければ、慶花自身が自己防衛として無意識の内に理想の「美」のレベルを下げていたかもしれない。

「では、もう一つの方法しかないわね。」
 瑞穂は、じっとこちらを見つめている慶花の大きな瞳を見て、愛らしさとけなげさを同時に感じ取っていた。
「慶花の方がレベルを上げて理想の『美』に近づくという方法以外に何かあるかしら?」
 瑞穂はわざと慶花の方に質問を投げかけた。 
「でも・・・お化粧をいくら上手にしても、お洋服をどんなに着飾っても、どうしても・・・」
「そう。じゃ、慶花とその理想の人とはどこが違うの?」
「そ、それは・・・もう、全部・・・違います。」
「全部?例えば?」
「まず・・・肌の美しさが全然違います」
「ふうん、慶花もだいぶ綺麗だと思うけど・・・それから?」
「髪の毛も・・・もっと豊かで輝いていて・・・目もくりっとして可愛らしくて・・鼻も小さくて、ツンと上向いてるし・・・・唇もふっくらとしてセクシーだし・・・それに・頬だって・・・・」
 慶花の目がきらきらと輝き始めている。まるで自分の将来を夢見る少女のような瞳である。
「ちょ、ちょっと・・・ちょっと待って。確かにお化粧だけで何とかなるレベルのものじゃないわね。残念だけど。」
 慶花の目の光が急にその明るさを失った。
「ねえ、慶花。あなたが本当にその姿を望むなら、整形しかないと思うけど、どう?」
「い、いえ・・それは・・・絶対に、しません。絶対にっ」
 慶花は声を高くして言った。
 慶花はこの段階でも、「慶太」を心のどこかで捨てきれないでいた。
 万が一、「慶太」が心に舞い戻ってきた時に、整形などということをしていたら、取り返しがつかないではないか、という思いがあった。
 だから、自分と理想の女性との違いを瑞穂に聞かれても、身体については一切触れなかったのだ。本心を言えば、最も大きな違いは、豊かで美しい胸と括れたウエスト、そしてふくよかなヒップと長く整った脚だと言いたいところである。でもそれはあえて口にしなかった。言えば整形の話に向かうことが明らかだったからだ。

「そう、では一つだけ試してみる価値のある方法があるんだけど・・・」
 瑞穂は落胆の色を浮かべる慶花の顔をのぞき込むようにしながら、思わせぶりな口調で話を始めた。
「うまくいけば、肌と髪の毛については確実に効果が現れると思うわ。」
「く、薬・・か何かですか?」
「ええ、最近開発された薬で、まだ正式名称はないけど、一応『N1新薬』と呼ばれているものよ。」
「危険な薬・・・ではないんですか?」
「危険? どのような?」
「例えば・・・命に関わるとか・・・?」
「アハハ・・・それは絶対にないわ。」
「副作用・・・副作用はどうですか?」
「現段階では報告はないけど、どんな薬だって使用法を間違えれば副作用はあるものよ。」
 瑞穂は一般論で話を逸らした。
 まちがっても常習性を引き起こす可能性があるなどと口にすることはできないからだ。

「本当に肌と髪の毛には効果が現れるんですね?」
「ええ、それは確実よ。個人差があるけど、恐らく1週間くらいで変化が見え始めるはずよ。」
「そう・・・・ですか。」
 慶花は逡巡した。「N1新薬」使用への期待感と不安感が大きく渦巻いていた。
 そんな慶花の気持ちを察して、瑞穂は決定的な一言を口にする。
「いままでに、私が慶花に嘘を言ったことがある? 慶花に無理矢理何かをさせたことがある? 慶花にとってマイナスになることをしたことがある?」
 
 もしもその場に全知全能の神がいたなら、この言葉を臆面もなく口にする瑞穂という女に鉄槌を下したに違いない。だが、残念ながらその場には瑞穂のことを信頼しきっている「慶花」という哀れな人物しかいない。
 そんな慶花が「N1新薬」使用に関する、本人同意書にサインをしたのは、ある意味当然とも言えた。


 慶花が「N1新薬」による身体の変化の兆候に気付いたのは、経口による服用を始めて10日程経過した日のことだった。
 朝シャワーを浴びている時に、肌を打つ水滴の感触が微妙に違っている気がしたのだ。
 それが水流の変化によるものなのか、自らの肌の変化によるものなのか、慶花にも判断はつかなかった。ただ、その感触が心地よいものであったのは確かである。
 水滴を拭き取った後、バスタオルを胸高に巻いてバスルームを出た慶花は、そのまままっすぐに姿見の前に立ち、バスタオルを取った。
 特に何かが変わったという印象は受けない。
 瑞穂の話では、肌と髪の毛に良い効果があるのは確実だということだったので、とりわけ肌の色やつやに注目してみた。
 やはり気のせいだ、と慶花は思った。肉眼でわかるような変化はどうしても捉えられなかった。
 それでも、やはりどこかが変わっているような気もする。
 慶花は期待と落胆が入り交じった気持ちで、もう一度タオルを胸高に巻いた。


 それからさらに5日後、今度ははっきりとした形で変化を認識することとなる。
 シャワーを済ませて、ドレッサーの前でメイクを始めた慶花は顔色が少し変わっているような気がした。それは病的に顔色が悪いという意味ではない。輝きと白さが増した印象なのだ。
 慶花はこみ上げてくる期待感の中で、いつものファンデーションを丁寧に伸ばしてみた。 やはり受けた印象に間違いがないことはすぐにわかった。
 コンフレクション(顔色)を合わせたお気に入りのファンデーションが合わないのだ。
 慶花は試しに一段明るいファンデーションに替えてみた。
 今度は違和感なく肌の色に馴染んでいく。
 しかも冷静に鏡を見てみると、肌の肌理にもはっきりとした変化が感じ取れるし、弾力の違いもあるような気がする。
 慶花はもう一つの変化の現れを期待して、髪の毛を凝視した。
 色艶やハリといった髪質に関わる変化は認識できなかった。ただ、幾分伸びるのが早くなったような気がした。

 その日のカウンセリング時に、変化が起こり始めているらしいことを瑞穂に告げた。
「あら、私はもう5日くらい前から気付いていたわ。慶花の肌の違いにね。」
 瑞穂はこともなげに言った。
 慶花はその言葉が嬉しかった。自分の感じていたのが単なる期待感からくる幻想ではなく現実のものだとういう証でもあったからだ。
「それに、髪の毛だって変わってきているわ。気付かない? 色艶もハリも出て、とても綺麗になってるわ。もう、そういうことに気付かないとダメよ。女の子なんだから フフフ・・」
 瑞穂のからかい混じりの言葉に慶花は顔を赤くして俯いた。


 それからの慶花は毎朝鏡の前に立つのが楽しみになっていった。
 ひとたび変化の端緒を現実のものと捉えた後は、小さな変化も見逃さなくなっていった。 そう言えば、不思議なことに「N1新薬」の投与を始めてから、「美」への強迫観念から来る身体の変調はほとんど起きなくなっていた。
 そのことを慶花はあえて瑞穂には話してはいない。
 恐らく、わずかずつではあるものの自分の理想の「美」に近づいて行っているという思いが焦燥感を和らげてくれているのだろう、と自分なりに解釈していたからだ。

 しかしその解釈は一面を捉えているに過ぎなかった。
 では慶花の焦燥感を和らげてくれた最も大きな要因は何だったのだろう。 
 それは「N1新薬」の主成分であるエストロゲンの作用によるものだった。
 本来、女性という生き物は「その他大勢のなかの一人」になることを本能的に嫌う。
他の女性が同じ服を着ているだけで不快感を感じるなどという心理はその表れでもある。 
 つまり自分は常に特別な存在であるという意識が働くのであり、それ故に誰もが競うように美を求め、特別な存在になることを目指す。
 そして、その「美」を求めたいという心理状態の時には、他の者はほとんど目に入らない。自分がすでに特別な存在となっているからである。
 だから、たとえ一歩ずつでも美のレベルが上がっている間は、焦燥感はないのである。
この女性特有の心理はエストロゲンという女性ホルモンの成せる業であり、男性には理解し難い心理でもある。
 もし慶花にその心理が働いているとするならば、エストロゲンの影響が、すでに内部にまで到達している証でもあった。
  

「N1新薬」投与から約1か月後のある日、慶花はその後の運命を大きく左右する決断をしてしまう。
 日に日に、自分の理想の「美」に近づいていることに言いようのない幸福感と陶酔感を感じ始めていた慶花は、瑞穂に投薬量の増加を相談した。
 相談を受けた瑞穂は内心両手を叩かんばかりに喜んだが、無論それを顔に出すことはせず、表面上はむしろ慶花の身体を慮る姿を演出した。

「慶花、あなたは毎日綺麗になってるわ。それで十分でしょ? 焦ることなんてないじゃない。」
「いえ・・焦りとかじゃないんです。僕、毎日楽しいんです。綺麗になっていくことが幸せなんです。もっとその幸福感を味わいたい・・・それだけなんです。」
 慶花はいまだに、一人称として「僕」を使っていた。
 瑞穂に指摘されて、一時的に「私」や「慶花」を使うこともあるが、すぐにまた「僕」に戻った。また、特別に女性言葉を使うわけでもないし、男性としてはもともと高めだとは言え、声のトーンを不自然に高くして話すこともしない。
 これは慶花の中に微かに残る「慶太」の理性がもたらした行為であるのは言うまでもない。
 だが瑞穂には、目の前にいる魅力的な美しい女性の唇から「僕」という違和感のある言葉がついて出てくる光景は、倒錯的な映画のワンシーンにさえ思えてくるのだった。

「でも、この薬はまだ開発されて間もないので臨床データもあまり豊富ではないの。もしも投薬量を増やして悪影響が出ないとも限らないわ。」
「悪影響って、例えばどういうことでしょうか?」
「まず最も顕著なのは、脂肪の増加、それから筋力の低下。精神的な面では攻撃性の減少、感情の起伏が大きくなる・・・といったところかしら。」
 瑞穂は肉体と精神の両面での「女性化」という単語は一切使わなかった。それを巧みな単語の言い回しで代用させたのである。
「僕は・・・元々やせすぎているから脂肪が多少ついてもかまわないし、筋力が低下しても、それほど気にしない。それに攻撃性だって、会社経営者に戻れるわけじゃないんだから、むしろそんなものがあったら邪魔かもしれない。感情の起伏はちょっと気になるけど、今の自分の精神状態なら全然心配する必要はないと思う。 だから先生、やはり薬の量を増やしてください。お願いします。」
「それでも私はあまり賛成しないわ。薬に依存しすぎるのはね。」
「わ、わかってます。依存しすぎないように気を付けますから、お願い、先生、お願い。」
 慶花は涙まで浮かべて哀願した。
 瑞穂は潤む瞳を見つめながら、心の中で呟いていた。
(もうこれで全部、説明したわよ。それでも投薬量を増やしてくれと頼んだのは、あなたよ、慶花。わかっているわね?フフフ)
 瑞穂は、「N1新薬」使用に関する本人同意書に、3点の但し書きを加え、慶花の前に差し出した。
「わかったわ。あなたの意志を尊重しましょう。今日からは経口投与に加えて皮下注射による投与も加えます。それでいいわね?」
「は、はい・・・お願いします。」
 慶花の涙で潤んだ目に、ようやく喜びの光が宿った。
 慶花は同意書に加えられた但し書きには一切目もくれずにサインをした。
 一刻も早く幸せに浸りたいという一心だった。
 
 但し書きには、
 1,「N1新薬」使用による、女性化、及び薬物依存症の危険性について説明済み 
 2,1の説明を受けた後、本人の意志により使用量の増加の要請あり
 3,身体の異変についての責任は本人のみにあり、施設側には一切責任がない。
 とあった。 
  
 
 投薬量増加の効果はすぐに出始めた。
 肌の白さと肌理の細かさは、もはや少し遠目からでも認識できるレベルに達していたし、髪の毛の艶とコシ、そして豊かな質感はどんなヘヤスタイルにも対応できそうな印象である。
 顔つきは少し優しげな印象に変わり、肌の透明感と合わせて見ると、たとえノーメイクでもほとんどの人は慶花を女性と認識したであろう。
 身体全体にうっすらと脂肪がのったような柔和さが加わり、今まで皮膚を通して見えていた骨の一部が皮膚の中に埋もれている。
 慶花はそれを瑞穂の言う「脂肪の増加」だと思ったが、慶花自身はそれはお腹周りに来るのだろうと勝手に想像していた。そしてそうなった時にはダイエットでもすればいいやくらいに考えていたのである。
 
 ところが「脂肪の増加」はある時点から予想のしていなかった形に変わっていった。
 お腹周りは最初にうっすらと脂肪がのって以来、全く増えていく様子がない。だがそれを挟んだ上下、つまり胸の周りと、腰回りからお尻にかけての部分の脂肪の増加が止まらないのだ。

 慶花はある夜、バスルームから濡れた身体のまま飛び出した。 
 胸の深さまでぬるま湯に身体を沈めていると、そこに今まで意識したことのない水の描くの線が見えたのだ。両脇の下から始まるその線は一度前方に丸みを作り、頂点を境に胸の中央に戻ってきていた。これは慶花の胸に、二つの小さな丘状のものが出現していることを意味していた。それが何を意味しているのか、さすがの慶花もすぐにわかった。
 
 慶花は濡れた体を鏡に映してみた。
 そこには、それまでに気付くべきだった様々な変化が具現化した形で現れた。
 すこし太ってふっくらとしたと思っていた下半身は、紛うことのない女性のヒップラインを形成している。
 その上方に向かうラインは、ウエストにしまった括れを作り、胸の二つの小丘へと続く。
 一方、下方に向かうラインは、脂肪がほどよく乗った太股へと流れていく。
 全体を通じて、直線がほとんどなく曲線のみで描き出されているようなシルエットを、慶花は息を飲んで見つめた。

 慶花は視覚によって感じ取った変化を、触覚で再確認しようとゆっくりと指先を身体全体に這わせていった。
 指先の感覚は視覚より鋭敏だった。
 視覚で捉えた曲線が、触感で伝わってくることで、より立体化したイメージが慶花の頭の中浮かんできたのだった。
 右手の細く長い指先が、左の胸の小さな丘に触れる。そして伸ばした爪の先が小さな突起に触れる。ピクッという、それまでに経験したことのない微かな電流が駆け抜ける。
「アッ・・・」
 慶花の口から小さな吐息が漏れた。それは慶花自身も始めて耳にする高い女性的な響きを持っていた。
 
 慶花は躊躇いながら、自らの股間に手をのばした。
 そこには確かに、慶花が本当は「慶太」であるという証が存在していた。
 ただ、存在はしていたのだが、「慶太」自身がコンプレックスを抱いていたそのサイズはさらに一段と矮小化していた。
 慶花はハッとした。
 今まで忘れていたことだが、最後にエレクトした時のことが思い出せない。
 少なくとも「N1新薬」投薬後に絞れば、一度もなかったような気がする。
 背筋を冷たいものが走った。

 慶花は心を落ち着けようとベッドに入り目を瞑った。けれど、全く眠ることができない。
 自分の身体に起こっている変化を何度も頭の中で整理しようとした。
 だが、自分に都合のいいように、あれこれ理由付けをしてみても、胸の膨らみ、ウエストの括れ、ヒップの丸み、ペニスの矮小化・・・・それは、どれもが身体の女性化を意味しているのは明らかだった。
「美」のステップアップに喜んでいたため、意識していなかったが、そもそも肌が白く肌理細かくなったのだって、髪が豊かな色艶とコシを持つようになったのだって、別の見方をすれば身体の女性化ではないか。

 慶花の心にある仮定が浮かんだ。
「もしかして、女性ホルモン?」
 信じられない、いや信じたくない仮定だった。

 ベッドから起きあがった慶花は「N1新薬」投与の本人同意書の写しに目を通した。
 そこには新薬の主成分が「高濃度エストロゲン」であることが明記されていた。
「エ、エストロゲン・・・って確か・・・」
 慶花は「エストロゲン」という名称には聞き覚えがあった。ホルモンに関する名称だったような気もする。ただ、それが女性ホルモンの別称であるとは、瑞穂の手書きの但し書きを見るまでは確信できなかった。

『N1新薬使用による、女性化・・・薬物依存症・・・』  
 信じがたい単語の連続に目の前が真っ暗になった。
「仮定」が「確定」に変わった。
 信頼していた瑞穂に騙されたという思い、そして進みつつある身体の「女性化」への不安が慶花の目を涙で曇らせた。
 
 慶花はめったに使ったことのない、緊急連絡番号で瑞穂を呼び出した。
 数回の呼び出し音の後、落ちついた瑞穂の声が聞こえてきた。
「慶花ね? どうしたの、こんな時間に?」
「せ、先生・・・僕を・・僕を騙したんですかっ?」
 慶花はそこまで言うと、こみ上げてくる嗚咽にかき消されて声が出ない。
「騙したって?どういうこと? もう少し落ちついて説明して。」
 瑞穂の声には全く動揺の様子が感じられない。
 しばらくの間、瑞穂の冷静な声と慶花の嗚咽のみが交錯する。
 瑞穂は二言三言声をかけた後で、詳細は翌朝のカウンセリングの際に話をすることを約束して電話を切った。
 
 結局、慶花はエストロゲン、つまり女性ホルモンのことを口に出す勇気は出なかった。
 冷静な瑞穂の口から真実が語られるのを聞くのが、急に怖くなってきたからだ。
 (とにかく、もうこれ以上薬を飲んではいけない。今やめればすぐに元に戻るかもしれないし。)
 慶花は心の中で呟くと、テーブルの上に置かれたN1新薬の錠剤をすべてトイレに流した。

 
 その後、一睡もできないまま朝を迎えた慶花は、意識をはっきりとさせるためにいつもよりも熱いシャワーを浴びると、再びベッドに入り時間の来るのを待った。
 いつものようにシャワー後まっすぐにドレッサーの前に立たなかったのは、慶花の強い意志だった。
 夕べ眠れないままベッドの中で一つの決断をした。
 それは、メイクとフェミニンな服との決別だった。
 それにより進行していく女性化を食い止め、もとの身体に戻すことも早まるのではないか、と考えたのだ。

 慶花は、白いコットンのショーツ、白い無地のTシャツとシンプルなスタイルのジーンズを選んだ。いずれもレディスではあるが、いつもの零れんばかりのフェミニンさとはかけ離れた姿だった。
 だが、身体の変化に気付いた今、Tシャツの胸の小さな膨らみが妙に大きく感じられる。
 慶花は深いため息をついた。
 時計を確認した。カウンセリングの予定時刻まで、まだ一時間以上あった。

 もしもこの時、時間に余裕がなければ、慶花はセレクトしたボーイッシュな姿でカウンセリングを受けていただろう。
 しかし最終的にカウンセリングルームに現れた時の慶花の姿は、ミディアムレイヤードのウィッグにフルメイク、そしてミニ丈のピンクシフォンワンピースという驚くほどフェミニンな出で立ちだった。

 慶花はどうして決断を覆したのだろうか?
 それは極めて簡単な理由だった。
 ノーメイクでボーイッシュな姿を鏡に映した時、あの「美」に対する強迫観念が襲ってきたからである。
 毎日「美」を磨くことに集中していたためにすっかり忘れかけていた、あの苦しみが舞い戻ってきたのだ。
 慶花はそれでも必死に耐えようとした。深い深呼吸をしながら、悪寒、冷や汗、頭痛といった体調の変化をやり過ごそうとした。だが、それは結局は徒労に終わることとなった。

 ショーツをピンクレースのタンガに替え、ワンピースを身につけ、ドレッサーの前に座った時には、慶花の気持ち決まっていた。
(この強迫観念から逃れることは絶対にできないんだ。フルメイクもフェミニンな服装も自分にとってはもう切り離せないものなんだ。)
 慶花の心の中には、はっきりとした諦観が芽生えていた。
 
 フルメイクを終え、ウィッグを着け、姿見の前に立った。
 いつものように最終チェックをするためだ。
 頭の先からつま先までミスのない完璧な仕上がりだった。
 慶花の目指す、理想の「美」にまた一歩近づいている印象だ。

 しかし、どういうわけか、その日の慶花には幸福感も安堵感も沸いてこない。
「美」に対する強迫観念は消えているのに、頭痛と動悸が止まらない。
 その不調はさらに悪寒から嘔吐感へと繋がっていった。
 慶花は自分の身体に何らかの変化が起こっているのに気付いた。
 時計を確認すると、カウンセリングの時間が迫っていた。
 慶花は原因不明の体調変化に耐えながらカウンセリングルームに向かった。


「どうかしら? ちょっとは落ちついた? 昨日の電話ではだいぶ興奮していたみたいだけど。」
 瑞穂は、慶花に着席を促すと、できるだけ冷静な口調で話し始めた。
 慶花の息づかいがいつもと違っているのはすぐに気付いたが、そこにはあえて触れなかった。
 実は、瑞穂には昨夜の段階で、慶花の口からどんな話が出てくるのか、ある程度予想はついていた。「騙した」という言葉が、「N1新薬」に関することだろうというのは容易に推察できたからである。

「あ・・・あの・・・薬は・・・女性ホルモンだったんでしょ?」
 慶花はわずかな沈黙の後に、思い切って口を開いた。
「ん?そうよ。それがどうしたの?」
 瑞穂の答えは意外な程あっさりしていた。その口調には、(そんなこと、あなたも当然知っているでしょ?)といったニュアンスが含まれていた。
「な、なぜ・・・先生は・・・それを説明してくれなかったんですか?」
「エストロゲンが主成分であることは『本人同意書』にも記されているはずだけど?」
「そ、そんな・・・・だって、先生は・・・エストロゲンが女性ホルモンだなんて言わなかったじゃないですかっ」
「だったら、なぜサインなんかしたの?疑問があればサインなんかしないことよ。」
「そ、それは・・・・」
 慶花は口ごもった。
 確かに瑞穂の言う通りだった。
 新薬の投与を最終的に合意したのは、他の誰でもない自分なのだ。
 それに、瑞穂を責めたところで、すでに投与されてしまった新薬を取り除くことなどできないのだ。
  
「でも・・・もうこれ以上の薬を飲むのは・・・やめますから・・・」
 慶花は諦観を滲ませながらも、精一杯の決意の言葉を口にした。
 瑞穂は、一瞬驚いたような表情ををしたが、すぐに冷静さを取り戻した。
「ええ、それはあなたの自由よ。私たちはあなたが薬を欲しがるなら投与するし、いらないなら投与をやめるだけ。」
 慶花は小さく頷くと、そのまま俯いて目を閉じた。
 数分前から動悸と悪寒が一層激しくなっていたのである。

「ん?どうしたの?身体の調子でも悪いの?」
 瑞穂は、黙ったまま俯いている慶花の様子に異変を感じ取り、心配そうな声で言った。
 慶花は今起こっている体調の異変について話すことを躊躇った。
 もしもこの異変も新薬の影響だったらと考えると言い出す勇気が沸かなかったのだ。
だが、そんな躊躇いも長くは続かなかった。
 動悸と悪寒に加え、いったんは消えかけていた冷や汗と頭痛も加わってきたのだ。
 慶花には迷っている余裕はなかった。

「せ、先生・・・僕・・・身体が・・・今朝から 変なんだ・・・」
 ファンデーション越しにでも、慶花の顔色が悪くなっているのがわかった。
 瑞穂はその様子から、すぐに「あること」に気付いた。
「ねえ、慶花。あなた今朝、お薬飲んだ?」
 慶花は大きく2回首を振った。
「わかったわ、原因が。あなた、すでに薬物依存の状態に入っているの。」
「や、薬物・・・依存?」
「ええ、つまり『N1新薬』を服用し続けなくてはいられない身体になってしまっているということよ。」
 あまりの言葉に慶花の大きな瞳がさらに大きく見開いた。
「だから、あれほど言ったのに・・・。投薬量を増やすと薬物依存症になる可能性があるって・・・。」
「で、でも・・・先生、このまま薬を飲まなければ、いつかは治るんですよね?そうですよね?」
 慶花は涙声で瑞穂の同意を求めた。
「ええ、それはそうね。このまま『N1新薬』の投薬を止めれば治るはずよ。」
 慶花の顔に一瞬光が差した。
「そ、それと・・・今までの・・・あの・・・身体の変化とかも元通りになるんですよね?」
 慶花が躊躇いがちに質問した。
「身体の変化?それはどういうことかしら?」
 瑞穂は興味深げな視線を慶花の身体に向けた。
 もちろん瑞穂には慶花の肌質や髪質の変化などといった「N1新薬」の効果は感じ取っていた。だが、服に覆われた部分の変化については完全に把握しているわけではなかったのだ。

「とにかくちょっと見せてみて。見てみなければ何とも言えないから。」
 瑞穂の言葉に慶花は一瞬躊躇いを見せたが、最終的には嫌々ながらも従った。
 慶花は、カウンセリングルームの隅で背中を向けながらワンピースを脱いだ。
 瑞穂の目に白く肌理の細かい背中が飛び込んできた。以前の、細く薄い質感を伴った少年の背中に、うっすらと脂がのり、丸みを帯びた質感に変化しているのがわかった。
「ちょ・・ちょっと・・こっちに来て、良く見せて。」
 瑞穂の言葉は、興奮と期待で震えていた。
 慶花は胸の前で両腕を交差させると、俯いたままゆっくりと瑞穂の前に歩み出た。
 覆うもののないウエストからピンクレースのタンガに至る線は、すでに曲線を描き始めていて括れらしき部分を形成しつつある。
 タンガが包むヒップとそこに繋がる太股の質感は以前のやせぎすの少年のものではなく、ふっくらとした肉感をも感じさせるものだった。

 瑞穂は胸が高鳴った。慶花の両腕に覆われた胸の部分を早く目にしたいという焦りが冷静さを奪った。
 瑞穂は慶花の両腕を強引に引き離した。
「あっ・・・」
 慶花は、いつもの瑞穂には見られない感情的な行動に一瞬戸惑いはしたが、抵抗はしなかった。
 瑞穂の目に、二つの小さな小山が飛び込んできた。
 それは乳房と称するにはあまりに儚いものではあったが、その部分が女性特有のものであるということは誰の目にも明らかだった。
「か、可愛いわ・・・」
 瑞穂の手のひらが慶花の小さな膨らみの上をなぞるように動いていく。
「せ、先生・・・」
 慶花の口元から微かな吐息混じりの声が漏れる。 
やがて指先が小山の中心に向かい、小さな突起に触れる。
「アッ・・・」
 慶花の背中に微かな電流が走った。
「フフフ・・敏感なのね?」
 瑞穂の顔にいつしか悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。

 やがてひとしきりの「検査」を終えた瑞穂は慶花に服を着るように指示し、ソファに座り直した。
「せ、先生・・治りますよね? 薬止めれば、元の身体に戻りますよね?」
 慶花はワンピースに袖を通しながら尋ねた。
「ええ、治るわ。薬を止めれば、また男性ホルモンの分泌によって戻るはずよ。」
 不安げだった慶花の顔にはっきりとした安堵の色が浮かんだ。
「ただ、依存症からの脱却は思っている以上に大変なことよ。この施設には薬物依存症患者を扱う設備がないから、すべては自分の力でやらなくてはならないわ。あなたにそれができる?」
「は、はい・・・できる・・・と思います。」
 慶花にはそう答えるより他に方法はなかった。これ以上の身体の女性化を食い止めるには「N1新薬」からの決別が絶対条件だからである。
「それに・・・あなたが理想の美しさを手に入れるために始めた薬を、自分の意志で止めることができるの? 『美』への強迫観念と闘うことができる?」
「せ、先生は・・・僕に薬を続けさせたいんですかっ?」
 慶花はわずかながら声を荒げて言った。
「いいえ、そんなことはないわ。この施設ではすべて自由意志が最優先されるから、あなたに薬を続ける意志がなければ、強制はされないわ。」
 瑞穂はそう答えたが、内心では
(もちろん、薬を止めさせなんかしないわ。だって、慶花、あなたの身体はもう女の子になり始めているのよ。待ってなさい。すぐに本物の女の子にしてあげるから。フフフ)
 と呟いていた。 


 カウンセリングを終え、一人になった瑞穂はこれからの慶花の女性化への過程に思いを馳せながら、一人静かに微笑んでいた。
 瑞穂には慶花が「N1新薬」から脱却することなど不可能だという確信があった。
 その最大の要因は、慶花の心の中に「美」への強迫観念が植え付けられていることである。そもそも、その意識があったからこそ「N1新薬」の使用を選択したのだし、その強迫観念は、たとえ一時的に薬を止めたとしても、消えることはないのである。つまり潜在的にはいつでも薬を使用する可能性を秘めているということだ。
 瑞穂は慶花にその強迫観念をもたらしたサブリミナル映像による精神操作が、極めて有効だったことを再認識していた。
 もう一つの要因としては、まだ初期段階とは言え、確実に薬物に対する「禁断症状」が出ている点である。
 薬物依存からの脱却には、本人の意志と共に、周囲の協力が絶対に不可欠である。
 例えば、禁断症状が出て薬物を欲しがる人間に、それを渡さないという当たり前の行為を周囲の人間が行わなければならない。
 だが、この施設ではその当たり前の行為が行われることはない。なぜならすべては「Nランク」者の自由意志が尊重されるからである。従って、仮に慶花が理性では薬からの脱却を望んでいても、禁断症状のために、一言「薬が欲しい」という言葉を口にした途端、瑞穂たちから薬が投与されることになってしまうのである。
 つまり慶花には「N1新薬」の使用を止めようにも止められない要素があまりに揃いすぎているのだった。瑞穂の確信の裏付けもその点にあった。

 
 翌日から、慶花の禁断症状との壮絶な闘いが始まった。
 日に日に増していく不安感、焦燥感は激しい身体の変調をもたらした。
 悪寒、冷や汗、手足の震え、頭痛、嘔吐感・・・それらが不定期に襲ってきた。
 食欲は全くなくなり、無理して口にした食事もすぐに戻してしまうという有様だった。

 しかし慶花の意志は強かった。苦しみにも必死に耐えた。
 そして迎えた5日目の朝、慶花は前日よりわずかながら禁断症状が和らいでいるのを感じ、そこに薬物依存症からの脱却の兆しを確信した。
(もう少し・・もう少しで確実に抜けられる。)
 慶花は心の中で強く念じた。

 だが、7日目の朝に慶花の取った無意識の行動が、それまでの苦労をすべて水泡に帰すことに繋がったのだった。
 前日よりさらに気分も良くなっていた慶花は、いつものようにシャワーを浴びると、一週間ぶりにドレッサーの前に座った。
 実は、この一週間は意識して鏡の前に立つのを避けていた。
 鏡の前に立てば、メイクやフェミニンな服への抑えられない欲求が出て、それがまた「N1新薬」を求める欲求へと繋がっていくような気がしたからである。
 もちろん苦しい禁断症状との闘いで、ほとんどベッドから離れられなかったということもあるのだが。

「ひ、ひどい・・・この顔・・・」
 一週間ぶりに見る自分の顔は、あまりにやつれていて、顔色も悪く、病的にすら見えた。
 慶花は無意識の内に、化粧水に手を伸ばし、スキンケアを始めてしまった。
 この何気ない行動が、取り返しのつかない大きな結果に繋がっていくことなど予想だにしていなかった。

 一通りのスキンケアを終えると、改めて鏡に映る自分の顔にじっと目を凝らした。
 あの艶のある肌理の細かい美肌は戻ってこない。髪の毛も艶を失っている。
 もしもこの時の慶花の潜在意識に、サブリミナル療法を通じて植え付けられた「美」への強迫観念がなければ、きっと冷静な判断ができただろう。
(薬物の禁断症状が抜け、しっかり休養と栄養を取ったなら、いずれ肌も髪も回復するはずだ)という判断である。
 
 だが、残念ながら慶花にその冷静さはなかった。
 基礎化粧を終えても一週間前の姿を取り戻せないことに、言いようもない不安を覚え、思わずファンデーションに手を伸ばした。
 やがてその動きは、アイブロウペンシル、マスカラ、アイライナー、アイシャドウ、チーク、口紅と続くフルメイクへと繋がった。
 しかしフルメイクを終えても慶花の焦燥感は消えなかった。
 鏡に映る顔は一週間前の自分の姿には遠く及ばないと思ったのだ。

 この印象は慶花自身の焦燥感が生み出した誤解だった。
 肌や髪に疲れが現れていたのは確かだが、それは数日の休養で回復できるレベルであった。またフルメイクに仕上がった慶花の容貌は、傍目から見れば十分魅力的な美しさを保っていたのである。
 だが、「美」への強迫観念があり、それまで少しずつでも理想の姿に近づいていた慶花にとって、ほんのわずかな後退も許容することができなかったのである。

 慶花の心に不安感と焦燥感が大きなうねりとなって襲ってきた。
 同時に激しい動悸が起こり、悪寒が全身を走った。
 慶花は深く深呼吸をしようとしたが、肺深くまで息を吸うことができない。
 やむを得ず、細かい呼吸を繰り返したが、それがかえって動悸を速めているようにも感じられた。
 慶花はとにかく苦しさから逃れようと、ベッドに横になって固く目を閉じた。 
 少しずつ身体の位置を変えながら、楽になれる体勢を模索した。 
 その間も強迫観念と身体の変調は断続的に襲ってくる。
 
 だが、慶花にとって最悪だったのは、この体調の変化に誘発されたのか、消えつつあった薬物依存による禁断症状が呼び覚まされたことだった。  
 冷や汗と手足の震え、嘔吐感が以前より大きな力で押し寄せてきたのだった。
「く、薬・・・薬が・・ほしい」
 慶花は、思わず口をついて出た独り言にハッとした。
 首を横に何度も振り、自分の言葉を打ち消そうとした。
(ここで、負けてはダメ。もう少しの辛抱なんだから・・・・絶対に負けてはダメ)
 理性の声が脳裏に響いた。

 理性と本能の葛藤はその後1時間ほど続いた。
 そして、緊急連絡を通じて瑞穂に訴えた時には慶花の意識は半ば失われていた。
「せ、先生・・・お薬を・・・お薬をください。もう・・・これ以上は・・耐えられません・・・お願いします・・・」
 慶花の涙ながらの哀訴だった。
 本能が理性を打ち破ってしまったのである。


「N1新薬」の再投与は皮下注射の形で行われた。
 表向きは、経口投与よりも即効性があるという理由だったが、真の理由は濃度を高めることができるということだった。
 現にこの時瑞穂が与えた「N1新薬」の投与量はこれまでで最大の量だった。
 もちろん薬物依存の状態をできるだけ早く固定化してしまいたいという狙いがあったからであるが、慶花にはそんな裏の意図などわかるはずもなかった。
 ただ、注射を打つ際、瑞穂の見せた微かな笑みに、何とも言えず不気味なものを感じたのは確かだが。

 新薬投与の効果は驚異的だった。
 それまでの苦しさがまるで潮を引くように消えていった。
 だが苦しみから解放されると、次に慶花の心を襲ってきたのは、薬を摂ってしまったことへの激しい後悔の念だった。
「ど、どうして・・・薬を打ったんですかっ? なんで拒否してくれなかったんですか?僕が・・・僕が薬を止めようとしているのは知っているでしょ?」
 慶花は瑞穂の目を睨み付けながら言った。
「それは無理な相談ね。ここではすべて自由意志に基づくと言ったはずよ。あなたの方から要求があったのでそれに従っただけ。それに『N1新薬』使用に関する本人同意書は今でも有効なのよ。」
「そ、それじゃ・・これからも僕が禁断症状に負けて薬を欲しがったら・・・・」
「ええ、与えることになるわね。それが嫌なら口に出さないことね。」
 瑞穂は慶花の言葉尻にかぶせるようにして言った。
「わ、わかりました・・・もう頼みません。僕一人の力で何とかします。もう二度と薬が欲しいなんて口に出しませんからっ・・」
 慶花は吐き捨てるようにして言った。
 それはともすれば折れそうになる自らの気持ちを鼓舞する思いもあったのかもしれない。

 だが、その力強い言葉とは裏腹に翌日も、またその翌日も、理性が本能を打ち負かすことはできなかった。
 もちろん皮下注射による投与量が少しずつ増えていたことは慶花には全く知らされなかった。
 慶花の心にはいつしか諦めの気持ちが沸いてきていた。
 いくら薬物依存から脱却をしようとしても、一人の力ではどうしようもない。
 本能の圧倒的な力には抗う術もない。
 慶花は自分の無力さを痛感し、涙したが、瑞穂からの定期的な投与の提案を拒否することはしなかった。
(どうせ、僕が元の職場に戻ることはできないんだ。だったら、元通りの身体に戻ることなんて必要ないじゃないか。こんな苦しい思いをするくらいなら、楽しい道を選んだ方がずっといい。)
 慶花は自らにそう言い聞かせると、瑞穂の目の前で与えられた錠剤を飲み込んで見せた。

 その後、慶花への「N1新薬」投与量は、一日当たり、胸部と臀部への皮下注射を各一本ずつ、そして朝夕2回の錠剤服用と定められた。
 一週間ほどの中断期間があったからなのか、再度服用が始まると、その効果にはめざましいものだった。
 肌の肌理はすぐに回復し、透明感のある白さと相まって輝きさえ発するようになった。 髪の毛も元の艶とコシを取り戻し、伸びるペースも戻ってきたように思える。
 この分で行けばウィッグの力を借りなくても済むようになるのもそう遠い先ではないだろう。もちろんその前には施設内のヘアーサロンで美しくセットする必要はあるが。
 
 しかし効果は首から上だけに現れたわけではない。
 身体全体に柔らかな丸みのある質感が増す一方で、手足のか細さがより一層目立ってきたように思われる。
 身体のシルエットで見た場合には臀部と太股の肉付きと共に、小丘程度だった胸の盛り上がりが日を追う毎に存在感を増し、左右の小山のそれぞれが片手に余る豊かさに達していた。
 バストとヒップの豊かさに比べてウエストの薄さは相変わらずで、そのためにはっきりと「括れ」と認識できるものに変わっていた。

 慶花は日に日に変化していく自分の身体に戸惑いながらも、いつしか鏡の前に立つことが苦ではなくなっていた。いや、むしろある種の幸福感を持って見るようになったと言っても過言ではない。
 慶花には理想の女性美を追求する本能が、精神操作によって植え付けられている。
 それはもちろん容貌だけの問題ではない。身体全体の女性美である。
 とすれば、フェミニンな服装をした時に現れる女性らしい美しいシルエットは、慶花にとって望むべきものであり、決して否定すべきものではなかったのである。
 だから、鏡の前に立って自らの女性らしいシルエットを見た時、以前よりずっと理想に近づいていることが実感でき、そこに一種の幸福感を覚えたのは当然のことだったのである。
 この変化の過程で、慶花は初めて自らの選択でブラの着用を始めた。
 そして、自分の胸の膨らみが「Cカップ」に達していることを、その時初めて具体的な形で実感したのだった。 
 

****************************************

 2か月弱という期間の回想を終えた慶花の目にはうっすらと涙が滲んでいた。
 それは後悔と諦念だけではなく微かな幸福感さえも入り交じった複雑な感情がもたらした涙だった。

(弘美には、僕の気持ちが通じたのだろうか?)
 妻の弘美に宛てたメッセージ映像のことが慶花の頭をよぎった。
 時間的には常田と後藤の二人が弘美への説明を終え、帰路についている頃である。
 その説明そのものがうまくいったのかどうかも慶花には知ることはできない。
 ただ、少なくとも、心配している弘美の気持ちを和らげることはできただろう。
 慶花は心の中で自分にそう言い聞かせたのだった。 

N/Nプロジェクト 第7章

〔第7章〕

 桜の開花宣言が全国各地から聞こえ始めた3月下旬のある日、水瀬弘美は自宅のマンションで常田厳と後藤良介の来訪を待っていた。
 夫である水瀬慶太の近況報告を、彼らがもたらすことになっているからである。

 ここまでの道のりは弘美にとって決して容易なことではなかった。
 慶太との別居が始まってから、ほぼ5か月が経過した先月の初旬、弘美はとうとう行動に出た。
 いくら法律に基づいて国家が行うこととは言え、これほどの長期間、家族との連絡も取れない状態にしておくのはおかしいでないか、何とか連絡を取って話をする手段はないのか、と考えた弘美は知り合いの中央の役人に抗議をしたのである。
 それは、社長である慶太の留守中を守らなければならないという重圧から少しでも解放されたいという気持ちの表れでもあったが、それ以上に大きかったのは揺れ動く自らの心にしっかりとしたくさびを打ちたいという気持ちからだった。

 気持ちの揺れの原因は、もちろん山村誠也の存在である。
 実業経験の乏しい弘美を全面的にバックアップし、的確なアドバイスとサポートをしてくれたのは言うまでもなく誠也だった。そのおかげで会社の業績も以前と比べて遜色ない。いや、部門によっては業績がめざましく発展したものもあるくらいだ。
 そしてプライベートの面で、重圧と寂しさから崩れそうになる弘美を支えたのもやはり誠也だった。
 
 そんな頼りがいのある誠也との間に「一夜の間違い」が生じてしまったのは必然だったのかもしれない。
 もちろん、一夜限りと心に誓った上での情事である。
 それは弘美だけでなく、誠也も同じ思いだった。
 だから、「間違い」はその日以降は起こってはいない。
 ただ時折、脳裏にその日の情熱的なセックスの光景がまざまざと甦り、弘美を苦しめるのだった。
 
 誠也は、夫の慶太とは何から何まで正反対だった。
 体格も力強さも、セックスへの情熱もテクニックも・・そしてあの逞しいペニスも。
それは全て慶太には求めることのできないものだった。
 弘美はその夜、生まれて初めて「絶頂」という感覚を知った。
 いや、それまでも、これが「絶頂」なのかと思ったこともあったが、それが誤解だったことがその日の誠也とのセックスでわかったのである。
 弘美はその夜3回の「絶頂」を味わった。

 弘美には自分の心が少しずつ誠也に傾き始めているのがわかった。
 だが、それは長期に渡り慶太とのコミュニケーションがないことが原因だと、自分を納得させた。 
 弘美はモデル体型のスタイルと目鼻立ちの整った容貌から、男性経験が豊富そうに見られることも多いが、実際には性に関してはかなり古風な考えを持っている。
 だから「一夜の過ち」を犯したからと言って、そのままだらだらと流されていくような女性ではない。
 自分はこれからも水瀬慶太の妻であるという強い自覚が弘美にはあった。
だからこそ、揺れそうな自分の思いにくさびを打つ意味で慶太との連絡手段を模索したのである。

 
 弘美の強い抗議にも関わらず、役人の反応は鈍かった。
 「検討します」の一言で、その後の連絡は皆無だった。
 考えてみれば当然のことで、いくら知り合いとは言え、相手は役人である。
 国家の秘密を市民に暴露するわけはないのである。
 そのことに気づいた弘美が次に取った行動は、腕のいい私立探偵に依頼し、夫の消息を探らせることだった。
 調査結果は、予想に反してかなり早くもたらされた。
 それは慶太の居場所が判明したからではない。これ以上調査しても、居場所の特定は不可能だと判断されたためだった。国家の秘密の壁が高く、厚いものであることが弘美にもわかった。
 ただ、探偵は確実な情報として、2点の事柄について報告した。
 1点目は、初期の「Dランク」者として「適性教育機関」で再教育を受けた者の内、約70パーセントの人間はすでにその過程を終了していて、適性度の高い職業での社会復帰ができているということ。
 2点目は、現在「適性教育機関」に在籍している者の中に「水瀬慶太」の名はないということだった。

「つまり、ご主人は、再教育過程を終了して何らかの職業に就いていながら、ご家族に連絡することができないのか、あるいは、元々Dランク者ではなかったか、のいずれかです。」
 探偵はそのように結論づけて、弘美からの依頼を終えた。

 弘美は動揺した。もしも連絡ができないのだとしたらそれはどういう状況が考えられるか、何らかの犯罪に巻き込まれているのか、事故か、それとも自殺か・・・
 弘美の心には最悪の状況まで浮かんだのだった。
 
 弘美はその内容を誠也に告げた。
誠也は動揺する弘美を何とか落ちつかせようとした。
「社長に何か特別なことなんて起こるはずがない。だから、もう少しすれば必ず連絡があるはずだ。」
 その言葉に何の根拠もないことは弘美も十二分に承知していたが、誠也の真剣な物言いは弘美の心をなぜか落ちつかせる魔力のようなものを持っていた。

 二人は丸一日方策を思案した後、ある程度有力な人物の力を借りない限り、物事は前に進まないだろうという結論に達した。
 そこで二人が考えたのは、慶太の父親である先代社長の時代から、何かと親交のある田上勇作にあたってみることにした。
 田上は地元選出の国会議員で、本人はまだ当選2回という若手ではあったが、その父親の田上勇太は大臣まで務めた大物議員であり、地元では田上家は有力な存在だった。
 残念ながら父親は亡くなっているので、彼にどれ程の力があるかわからないが、取りあえずお願いしてみようということになった。

 田上に依頼してから10日後、一本の電話が弘美の元にかかってきた。
 電話の声は、微かに聞き覚えのある声だった。
 弘美はそれが以前自分のもとを訪れたことある、常田厳だということはすぐにわかった。
 電話越しに常田は、とにかく会って話がしたい、詳細はその時に話す、と言った。
 弘美はできるだけ早めの来訪を希望した。一日でも一時間でも早く詳細な情報が聞きたいという当然の思いからである。
 そして今日この日が約束の日となったのだが、少しでも早く情報が欲しかった弘美は、常田との電話の後すぐに、口利きをお願いした田上勇作に電話をかけた。もしかしたら話の中で慶太に関する情報をすでに掴んでいるかもしれないと思ったからだ。
 だが、それは間違いだった。田上が口利きの中で掴んだ情報は、水瀬慶太は無事であり、消息について詳しい人間が説明をしに行くということだけだった。
 弘美は正直落胆したが、そのことはなるべく表に出さずに、口利きをしてもらったことへの丁重なお礼で電話を締めくくった。

****************************************

 約半年ぶりの常田厳の来訪には、今回も後藤良介が同行していた。
 弘美は、一人で話を聞く勇気が持てなかったので、山村誠也に同席を頼んでいた。
 
 丁寧な挨拶交換の後、真っ先に話を切り出したのは後藤だった。
 それは、山村誠也が同席していることへの不信感によるものだった。
 部外者が同席するのは良くないとはっきりと言った後藤に対して、弘美は誠也と慶太の関係、さらに現在の会社内での関係などを話し、何とか理解を得ようとした。
 後藤はその真剣な話しぶりに気圧され、しぶしぶ同意した。

「奥さんが田上先生に働きかけてでも、ご主人の情報を得たいと考えたのは、もっともなことです。」
 しばらくの後に常田が口を開いた。
「ええ。そう言っていたければ幸いです。それで・・・現在、水瀬はどこで何をしているんですか?」
 弘美は結論を急いだ。
「はい、まあ・・・でも少し込み入ってくると思いますので、ちょっと順序立てて話しをさせてください。」
 常田は、少し冷静さを失いかけている弘美に、ゆっくりとした口調で話しかけた。
「まず、第一に水瀬慶・・・太氏は、現在も無事に当方の管轄内の某所で暮らしておられます。」
 常田が「水瀬慶太」の名前を一瞬言い淀んだのは、もちろん長らくその名を呼んでいなかったからだ。常田は思わず「慶花」と口に出しそうになった自分に冷や汗をかいた。

「某所?某所とはいったいどこですか?『適性教育機関』ではないのですか?」
 誠也が弘美に変わって、強い口調で質問した。
「実は、水瀬さんの『Dランク』者としての再教育はすでに終了しております。従って現在は『適性教育機関』にはおりません。」
 弘美は、「やはり」と思った。私立探偵の調査結果は正しかったのだ。
「ただ、事情があってまだ社会復帰をしておりません。」
「じ、事情?どんな事情ですか?」
 弘美が常田の目を見つめながら問いかけた。
「水瀬さんは再教育終了後の適性判断において、現職への復帰が不可となりました。」
「不可? 現職への復帰が?」
「ええ、簡単に言えばこちらの社長としての復帰は認められなかったということです。」
「そ、それはおかしいじゃありませんか? だって、以前のお話だと再教育終了後は確実に現職への復帰ができるとおっしゃったじゃないですか?」
 弘美が興奮しているのを抑えようと、隣に座る誠也が弘美の背中を軽く撫でた。
 その姿を常田だけでなく後藤も目にし、そこに何かを感じ取ったのか、二人は確認するように視線を合わせた。

「それは・・・確かにそうは言いましたが、物事には例外があります。水瀬さんはその例外でした。」
「確か・・・あの時は水瀬の意志に変化がなければ復帰は確実とおっしゃったと思いますが・・・。もしかして、水瀬の心に変化・・・・つまり、会社経営の意志がなくなったと・・・そういうことなのですか?」
「いえ、そういうことではありません。再教育期間中、水瀬さんは現職への復帰を望んでおられました。」
 一瞬、弘美の顔に安堵の色が浮かんだ。
 もしも慶太の意志が変わっていないのであれば、仮に社長としての復帰は叶わなくとも、
会長や顧問などの形で経営に携わってもらうことが可能だと思ったからである。
 だが、その安堵は次の常田の言葉で脆くも崩れた。
「ただ、水瀬さんは再教育機関終了後の診断で『現職復帰不可』の判断がなされると、さすがにやる気が失せたのか、そのまま社会復帰をすることをためらうようになったのです。そして、しばらくの間、今までと違う自分を発見するための猶予期間が欲しいと言い出したのです。」
「そ、そんなことを水瀬が言い出したんですか?本当に?」
 弘美には常田の言葉が信じられなかった。あれだけ会社経営に情熱を注いできた慶太が、
やる気を失うなど、どう考えても合理性がないように思われたのだ。

「今までと違う自分の発見というのは、どういうことでしょうか?具体的におっしゃってくださいませんか?」
 考えのまとまらない弘美に変わって、誠也が質問した。
「つまり、一時的に『水瀬慶太』という人格を捨てて、新しい自分の可能性を探ってみたいと、ご本人はそうおっしゃっています。」
「ということは、別の人格になるということですか?」
 呆然とする弘美に代わり、もう一度誠也が質問した。
「ええ。そういうことです。ですから、一時的に『水瀬慶太』という人物が存在していないものだと、奥さんもご理解いただきたいと思います。」
「そ、そんな・・・そんなバカな話、信じられませんっ。これは何かきっと裏があるに違いないわっ」
「裏? 裏と申しますと?」
「例えば、あなた方が無理矢理水瀬を脅迫しているとか・・・」
「脅迫? どうして我々が水瀬さんの脅迫する必要があるのですか?」
「そ、それは・・・」
 確かに彼らに慶太を脅迫する動機はない、少なくとも弘美にはその動機が見つからないのである。
「よろしいですか、奥さん。水瀬さんが社会復帰されようが、別人格での生き方を選択されようが、我々には何の影響もないんです。 ねえ、後藤くん。」
 常田は、横に座って無言でやり取りを聞いている後藤に同意を求めた。
「は、はい。その通りです。」
 後藤は、急な質問に慌て気味に言葉を返した。
 
 実は、後藤は常田から会話中は一切口を挟まないように念を押されていた。
「きみは、お芝居ができないからね。」
 それが常田が後藤に言った言葉だった。
 もしも直情型の後藤が、重大な秘密事項を漏らしてしまったら、取り返しのつかないことになってしまう。まして相手は政治家に依頼するなど、かなり積極的な行動を取る弘美だ。念には念を入れる必要があると常田は思った。
 それ故、後藤は言われた通り黙って話を聞いていたのだが、内心では、
(この常田という男は、どうしてこうも次々と嘘が出てくるのだろう。俺にはとてもできない芸当だ。)と思っていたので、黙っているという選択は、ある意味正解だと感じていた。
 
「で、でも・・・やはり水瀬がそんなことを自分の意志でするとはどうしても思えないんですっ」
 弘美の目にはいつしか光るものが浮かんでいた。
 涙の原因が国への怒りなのか、慶太への落胆なのか、これから先への不安なのか、弘美自身もそれはわからない。ただ溢れてくる涙をどうしても抑えることはできなかった。
「そうですか、では仕方がないですね。証拠をお見せしましょう。本来は許されることではないので、できることならお見せするのは避けたかったのですが・・・。」
 常田はそう言うと、隣の後藤に目配せをした。

 後藤は全てを心得ているらしく、確認のために聞き返すこともなく、持参したノートPCをテーブルの上に置き、電源を入れた。
「これからお見せするのは、水瀬慶太さんの一昨日の映像です。まあ奥さん宛のメッセージ映像のようなものですが、よくご覧になってください。」
 常田はそう言うと、ノートPCを弘美と誠也の方に向けた。


 白い背景の画面に、一人の人物の姿がピントのぼけた状態で現れる。
 ピントは徐々に合っていき、その人物の表情を映し出す。 
「え?こ、これが・・・本当に・・・」
 弘美の驚きの声を受けて、すぐさま常田が返事をした。
「ええ、これが今の水瀬慶太さんです。少し外見も変わられてますので、驚かれたかもしれませんが、これも別人格として生活をしてみたいというご希望に基づいてのことなのでご理解ください。」

 弘美は常田の「少し」という言葉がまやかしであることがすぐにわかった。
 少しどころではない。こんな慶太の姿は長年共に生活していた弘美でも一度も見たことがなかった。  
 トレードマークだった髭がなくなり、長い髪の毛を無造作な男性ポニーテールスタイルに結ばれている。その長さから判断して、恐らく半年近くはカットしていないのではと思われた。
 弘美が認識した変化はそれだけではない。
 顔色が違っているのだ。照明の影響なのかかなり白くなっているように見える。ただその白さは病的なものではなく、健康的な艶々した輝きを伴っている。
 よく見ると皮膚自体も以前より薄く、肌理が細かくなっているようにも感じる。それはまるで、スキンケアの行き届いた肌の美しい女性の、いわゆる「スッピン」状態のようだ。
 さらに弘美を驚かせたのは慶太の眉だった。
 細くすっきりと整えられた眉は、外見を気にする男性が施すレベルを超え、明らかに女性的な雰囲気が感じられた。
 
「水瀬さんは、しばらく自分を見つめ直すために若い頃の気持ちを取り戻したいとおっしゃって、このような青年男性のような姿を選ばれたんです。」 
 常田は、驚きで言葉を失っている弘美と誠也に向かって言葉を発した。
「せ・・・青年・・・男性?」
 弘美は思わず呟いた。
 確かに常田の言うように画面の中の慶太は実年齢より若く見える。いや若く見えるなどというレベルではない。せいぜい20歳台前半にしか見えない。
 さらに言えば「男性」という表現にさえ違和感を感じる。
 弘美の目には、中性的な少年、それもかなり女性的な少年の姿にしか見えないのだ。   
 やがて画面の慶太が静かに口を開く。その口元には笑みが浮かんでいる。
「弘美・・・お元気ですか? もう半年くらいになるのかな? 僕の変わり方にちょっと驚いたかもしれないね、ごめんね、びっくりさせてしまって。 たぶん常田さんから話を聞いたと思うけど、しばらくの間、自分の新たな可能性を見つけるためにちょっと若返ってみようと思っているんだ。もちろん全部自分で決めたことだよ。 だから当分君の元には戻れないけど、許して欲しい。
 でもね、こうして水瀬慶太の鎧を捨てて生き直してみるとね、何か肩の荷がすっかり下りたっていうか、気楽になったよ。 最初は会社のこととか、君のこととか、気になっていたけど、今はすっかり消えて楽しく毎日を過ごしてるよ。会社は僕がいなくても、君がいるし優秀なスタッフもいるから、きっと大丈夫だよ。君も僕みたいに、たまには全部忘れてのんびりしてごらん ハハハ・・・ そうそう、これからね、この施設のミニシアターで映画を見るんだ。すごくいいラブストーリーらしいから、とっても楽しみなんだ。
じゃあ、そろそろ時間だから。当分会えないけど元気でね。 バイバイ」

 慶太の姿が画面から消え、白い背景だけが映し出され、そして映像が終わった。
 映像を見終えた弘美の頬には幾筋もの涙が伝っていた。
 彼女はその涙を拭おうともせずただ呆然と映像の消えた画面を見つめている。恐らく、様々な感情が同時にわき上がってきて、自分でもどう処理して良いのかわからなくなっているのだろう。

 疑問はいくつもあった。
 例えば、「君」と呼ばれたことだ。慶太は弘美のことを名前で呼ぶか「お前」と呼ぶのが常だった。さらに自分のことを「俺」ではなく「僕」と言っている。
 それに「ラブストーリー」だっておかしい。弘美の知っている慶太は「社会派映画」か「歴史系映画」しか興味がないはずである。弘美がたまに観ている「ラブストーリー」をバカにした顔で眺めることさえあったくらいだ。

 だが、弘美にとってそんな疑問以上に落胆したのは、あまりに「お気楽な」話しぶりと、終始ニコニコ笑顔を浮かべていたこと、そして無責任とも言えるその内容だった。
「あなた、私がどんなに苦労しているのか、わかってるのっ!ここはあなたの会社なのよ!」
 弘美は映像を見ながら、何度もその言葉を口にしかけた。

 さらにもう一つ気になって仕方がないのは、時折見せる違和感のある仕草だった。
 それは、若い青年のものなどではなく、もっと女性的なものだった。
そしてその仕草が、優しい語り口と妙にマッチしていることが余計に弘美を苛立たしい思いにさせた。

 そんないくつもの感情が複雑に絡み合った弘美に、映像そのものの不自然さに気づけと言っても無理だったかもしれない。
 映像は終始慶太の顔のアップのみで、首から下は一切映っていなかった。
 もしもこの時点で弘美か誠也のどちらかが、その不自然さに気づき指摘したならば、もしかしたらその後の慶太の運命は変わっていたかもしれない。


 常田と後藤が帰った後のマンションには、泣き崩れる弘美を抱きしめる誠也の姿があった。
 複雑な感情に押しつぶされそうな弘美にとって頼れるのは誠也しかいなかった。
 誠也もそんな弱さを見せる弘美に心から愛おしさを感じたのである。
二人の熱い抱擁はやがて情熱的な口づけへと変わっていった。

 二人はその夜、二度目の「過ち」を犯した。
 どうしようもない感情の高まりが、弘美の理性を奪ったのだ。
 ベッドの中で誠也の逞しい身体に組み敷かれている弘美の脳裏には、逞しい誠也とはまるで正反対の慶太の姿が浮かんでいた。頼りがいがなく、弱々しい慶太の姿はとても同じ「性」に属する存在とは思えない。
(もしかしたら、あの女性的な姿こそ慶太の本来の姿なのかもしれない)弘美にはそう思えてきたのだった。
 そんな慶太の姿も、誠也の男らしく逞しいペニスが熱いヴァギナを貫いた瞬間、弘美の脳裏から粉々に消えてなくなった。


***************************************

 弘美と誠也が情熱的な交わりに溺れている頃、常田と後藤は帰宅の途にあった。
 予約した新幹線の発車時刻ぎりぎりに到着した二人は、駅で缶ビール数本と弁当、それに軽いつまみ類を購入して飛び乗った。それでささやかながらお互いの労をねぎらおうということだ。

「なんとか無事に終わりましたね。」
 缶ビールを開けた後藤が、常田のそれに軽く合わせて乾杯のまねごとをすると、ため息混じりに言った。
「ああ、なんとかね・・・」
 常田も深いため息をついた。
「それにしても、常田さん、次から次へとよく咄嗟に嘘が出てくるものですね。感心しましたよ。」
「いや、咄嗟ではないよ。これでもあらゆる質問に答えられるように準備しておいたからね。」
 常田は後藤の皮肉混じりの言い方に、多少カチンときたものの、首尾良く使命が果たせたことに満足したのか、その不快感を表に出すことはなかった。
「さすがに中央の役人ですね。用意周到ってわけですか。」
「それはそうだよ。失敗は許されないからね。それにしても水瀬弘美も余計なことをしてくれるよ。田上先生に声をかけるなんて。先生も困っておられたよ。本当のことを伝えるわけにはいかないし、かと言って先代からお世話になってる水瀬家のことだから無下にもできないとね。」
「そうですね。それでわざわざ私たちがこうして説明に来なくてはならなくなったんですからね。」
「それもあんな映像まで作らなくてはならないなんてとんだ手間だったよな。」
「本当ですよ。私なんか、そんな面倒なことするくらいなら、今の本当の『慶花』の姿を見せてやったらいいじゃないかって思ったくらいですからね。」
「おいおい、何を言ってるんだよ。そんなことしたらエライことだぞ。いずれは世間にも知られることだろうが、今はとにかくその時期ではない。上もそれは必死だよ。」

 後藤は常田の話に小さく頷くと、弁当の包みを開け、箸を付けた。
 常田はそんな後藤の手の動きを、何気ない表情で見つめている。
 緊張感が続いていたからか、すぐには食欲がわかないようで、常田はビールとつまみだけを口に運んでいた。
「それにしても、あの映像を作るときは苦労しましたよね。」
 後藤が口に入っている食べ物をビールで流し込むと、意味ありげな笑みを常田に向けた。
「ああ、本当だね。でもあれはやっぱり瑞穂先生のおかげだよ。顔や髪型は化粧を落としたり、ああいう男性ポニーテールみたいにすれば何とかなるけど、話す内容や表情は先生がいなければできなかったよ。第一、慶花はこの話聞いた時、『そんな映像なんて撮りたくない』ってさんざん手こずらせたんだからね。それを説得したのも瑞穂先生だし、できる限り明るく話して弘美を安心させるように言ってくれたのも瑞穂先生だ。今回のことでは感謝しているよ。本当に。」
「でも、あの映像、逆効果ではないでしょうか? 現に水瀬弘美はあんな浮かれたような夫の話し方に複雑な表情を浮かべてましたけど。」
「ああ、そうだったね。でも少なくとも『慶花』が明るい表情で話してくれれば、脅迫されたり強制されているのでないと弘美に納得させることになるだろう?」
「まあ、それはそうでしょうけど・・・。」
「それに、彼らはいずれ離婚することになるんだ。妻の弘美が夫に愛想づかししてくれれば、それもスムーズに進むってものだよ。」
「そう言えば、今日一緒にいた男、なんて言いましたっけ? ええと・・・ああ、山村誠也でしたね。あれは弘美とすでにデキていますね。」
「ああ、後藤君もそう思った? 私もそう思ったよ。でもそれならなおさらいいじゃないか。離婚の障害がなくなって アハハハ・・ 」
「妻を寝取られ、社会的地位も奪われ、自分は無理矢理女にされて男の性処理のためだけに生きる・・・・『Nランク』ってやつは本当に悲惨な運命ですねぇ。」
 後藤の言葉に常田も黙って頷いた。

 後藤が食欲旺盛な様子で弁当を平らげていくのを見て、ようやく常田にも食欲がわいてきたのか、自分の弁当を開くと箸をつけ始めた。
「ああ、それはそうと、弘美が気にしなくて良かったですね?」
「え?何を?」
「顔から下が一切映っていないことをですよ。」
「ああ、そのことか。そうだね。あれも苦労したからね。」
「もしも首から下が映っていたら、さすがに気づくでしょう。身体の変化に。」
「うん、隠すなら相当ダボダボな服を着なくてはいけないし、そうすると相当不自然だからなぁ。それにしても例の『N1新薬』の効果はすごいね。たった2か月足らずであそこまでの変化をもたらすんだから。」
「はい。それは私も思いましたよ。最初は半信半疑でしたけどね。」
「まあ、いずれにせよ、弘美が、首から下が映っていない映像の不自然さに気づかなかったのは本当に助かったね。」
「本当ですね。私もそこだけがずっと気になっていましたから。アハハハ・・・」

 常田と後藤は何本目かのビールを空けた。
 酔いが回るにつれ上機嫌になった二人の笑い声は比較的乗客の少ない車輌の中で響いていた。

N/Nプロジェクト 第6章

〔第6章〕

 慶太の心は動揺していた。
 昨日突然、瑞穂から特別にカウンセリングをしたい言ってきた。
 しかも今回はカウンセリングルームではなく、慶太の今いる、この部屋で行いたいと言うのだ。
 もしかしたら、瑞穂に隠している重大な事、つまり『慶花』として実験的に過ごした最終日の夜に、『慶花』として大男に犯される夢を見て夢精をしてしまったという事実、そのことが何らかの理由で発覚したのではないか、そんな不安な思いが慶太の心を占めていた。
 だからと言って、正直に包み隠さず事実を伝えることはできない。なぜなら、それは自分の真の人格が『慶花』という女の子であることを認めることになるからだ。そしてそれは結果的に、『慶花』としての人生を歩むことを認めることにも繋がってしまうのだ。
 慶太は心の中のどこかで、通常の男性として社会復帰できる可能性を捨て切れていなかった。
 もしそういう状況になった時に、『慶花』としての人生を歩んでしまっていたら、もう男の『慶太』に戻ることはできないではないか。そんな思いが慶太にはあった。
 あの日以降、慶太は、今日までの2週間ユニセックスの服装で過ごしている。もちろん化粧もしていない。カウンセリングもそういう姿で受けているが、瑞穂の目を見ることができない。彼女の話しぶりには変化はないようだが、奥に何かを秘めているような気もしてくる。


「は、はい・・・どうぞ。」
 ドアをノックする音に、慶太は消え入るような小さな声で応答した。
 一瞬の後にドアが開き、瑞穂が資料らしいファイルを片手に入室してきた。
 黒地にピンストライプの入ったパンツスーツが細身の身体によく似合っている。
「こんにちは、慶太くん」
 瑞穂がにこやかな笑みを湛えながら、慶太のいる窓際に近づいてくる。
 カウンセリングルームでの瑞穂とは少し雰囲気が違う。なぜかいつもにも増して威圧感を感じる。
 慶太は瑞穂の足元に視線を落としてみた。
 10数センチほどのピンヒールが、ただでさえ長身の瑞穂に一層の存在感を持たせていたのである。
 慶太は思わず目を伏せた。
 それはまるで年長者から叱責を待つ子供のような姿だった。

 もちろん、これは瑞穂の狙いの一つだった。
 ヒールによる20センチもの身長差が、ただでさえ負い目を感じている慶太に言いようのない威圧感を与え、ひいては瑞穂の圧倒的な優位性を認識させることに繋がると考えたのである。

「それじゃ、始めましょうね。」
 瑞穂は小ぶりの円テーブルにドレッサーの椅子を引き寄せると、ゆっくりと腰を下ろした。
 慶太は瑞穂と正対する形でベッドに腰を下ろした。
 この位置関係も瑞穂の狙いだった。
 いつものカウンセリングにおける隣の位置ではなく、正対することで相手に心理的圧迫を与えようという考えだった。

「どう、気分は?」
 瑞穂は俯く慶太を、微笑みながら見つめた。
「は、はい・・・ふつう・・・です。」
 慶太はちらっと一瞬だけ顔を上げたが、またすぐに俯いた。
「今日は、慶太くんに少し聞きたいことがあって来たの。」
 慶太はゴクリと生唾を飲んだ。
「嘘はつかないって約束できる?」
 慶太は黙って小さく頷いた。
「慶太くんが『慶花』になって過ごした最後の日の事なんだけど・・・・」
 慶太は一瞬ドキッとした表情を見せた。
「何か、私に話さなければならないこと、ない?」
「い、いえ・・・別に・・・」
「本当に?」
「は、はい・・・何も・・なかったです。」
 声が微かに震えている。
「そう? それならいいんだけど・・・」

 十数秒の沈黙の後、瑞穂が静かに口を開く。顔から笑みが消えている。
「ねえ、慶太くん、これなんだかわかる?」
 瑞穂は資料ファイルから1枚のDVDを取り出す。
「い、いえ・・・わかりません。」
「これは慶太くんの、この部屋での生活ぶりが収められたDVDなんだけど。」
「えっ? な、何て・・言ったんですか?」
 慶太は自分の聞き間違いだと思った。
「ねえ、あれ見えるかしら?」
 瑞穂は天井の一角を指さした。
 慶太はその指先の方向を追った。
 だが、そこには小さな窪みが認めらるだけだ。
「あそこにはね、とても小さいカメラが設置されているの。慶太くんの生活ぶりを確認するためにね。」
「そ、そんな・・・なんで黙ってたんですかっ?」
 慶太が怒りの声を上げた。
「フフフ・・そんなこと当たり前でしょ? しゃべってしまったら本当の慶太くんの生活ぶりを確認できないじゃない? バカね。」
 慶太の背中に冷たい汗がつたった。

「ど、どこまで・・・わかってるんですか?」
 慶太が思い沈黙に耐えきれずに口を開いた。
「うん? どこまでって、何が?」
「あの日の・・・僕が『慶花』になった最後の日の・・・ことが?」
「フフフ・・・心配? うーん、カメラは24時間休みなく作動してる・・・とだけ言っておこうかしら。」
 慶太は瑞穂の言葉に力無くうなだれた。

「ご、ごめんなさい・・・先生、僕・・黙ってました。」
 慶太が重い口を開いた。これ以上、隠しておくことができないと思ったのだ。
「やっと本当のことを話す気になったのね? 先生は正直な慶太くんが好きよ フフフ」
「僕、あの日・・・また夢の中で・・む・・夢精をしました・・・」
「ええ、わかってるわ、ちゃんと記録にも残ってるし。で、今度はどんな夢だったの?」
 その瞬間、慶太の心に閃くものがあった。
(もしかしたら、言い逃れできるかもしれない。夢の中まで記録されているわけはない。だったら、本当のことを言わなくても・・・・)
 
「あ、あの・・・男の『慶太』が・・・夢の中で・・・女の子を・・・あの・・・襲って・・・それで・・・」
 慶太は口ごもりながら言った。
 瑞穂の顔に落胆の色が浮かんだ。
 だが、彼女はあえて慶太の嘘を強く指摘するようなことはしなかった。
「そう・・・『慶太』が女の子を犯しちゃう夢だったのね?」
「は、はい。」
「で?相手の女の子は誰だった?」
「は、そ、それは・・け、『慶花』・・でした。」
「うん?それはおかしいわね。だって『慶太』も『慶花』も二人ともあなたの中の人格でしょ?」
「あ、ま、間違い・・・でした。 あの・・・見たことのない・・・女の子でした。」
「ふーん、そう。 じゃあ、彼女どういう服装だった? 髪型は? どういう顔してた?スタイルはどういう感じ?」
 慶太は瑞穂の矢継ぎ早の質問に面食らった。
 とっさにイメージできる女の子はいなかった。それに何か出任せで言うと、見透かされそうな気もした。
「えっと・・・あの、そういう外見は、みんなボーっとしていて、はっきり見えませんでした。」  
 瑞穂は、この慶太の言葉を聞いて一瞬目が輝いた。
「そう? じゃあ、どういう外見の女の子かわからないけど、襲ってセックスした行為自体は夢で見ているのね? そして、その夢に興奮して、夢精したってことね?」
「は、はい・・」
「ふーん、そう・・・」

 しばらくの沈黙の後、瑞穂は慶太に厳しい視線を送ると、きっぱりとした口調で言った。
「慶太くん、あなたは嘘を言ってるわ。」
「え?う、嘘?」
「ええ。いい? 一般的に男性は性的興奮をその対象に求めるの。つまり相手が誰であるかが重要だということ。まして襲って犯すなんていう男性性そのものの行為に相手がわからないなんてことは考えられないわ。」
 慶太は瑞穂の断定的な物言いに圧倒され言葉を失った。
「あなたが見たと言っている夢は女性のものよ。一般的に女性は男性と違って、性的興奮を行為そのものに求めるの。極端に言えば、相手は誰であっても関係ないってこと。」
 瑞穂は自分の話している内容が極論であることは十分承知していたが、これにより慶太に嘘をついているという負い目を感じさせることができるならやむをえないと思ったのだ。

「それに・・・記録にはこういう場面も残ってるわ。」
 瑞穂は黙ってうなだれている慶太を横目に、DVDを手に取ると、近くに置かれたプレーヤーに差し込んだ。

 映像はあの夜の記録だった。

「い、いや・・・やめてぇ・・・」
「お、お願いやめて・・・だ、だめぇ・・・」
 映像と共に、慶太の叫び声がはっきりと記録されていた。
 それが「慶花」の口から発せられた悲鳴であることは明らかだった。

「慶太くんっ!」
 言い逃れのできない証拠を突きつけられて、微かに震えながら俯いている慶太に、瑞穂は強い口調で呼びかけた。
 ハッとした慶太が思わず顔を見上げる。
「あなたは私に嘘をついたのよっ あなたが見た夢は『慶花』の夢。女の子の『慶花』になって男に犯される夢を見たの。そして、その『行為』に興奮して射精したのっ そうでしょ?」
 慶太の目が涙で潤んでいる。いつにない瑞穂の強い口調と、自らが嘘をついていたことの負い目が慶太を追い込んでいた。
「ご・・ごめんなさい・・・僕・・・」
 慶太はそこまで言うと、頭を抱え込んで泣き崩れてしまった。

 瑞穂は再び顔に笑みを作ると、ベッドに座る慶太の横につき、震えている肩を抱いた。
 そして、静かに優しく声をかけた。
「もう、いいわ、慶太くん。嘘をついたことを謝ったんだから、ね? じゃ、先生に本当のことを話してごらんなさい。」
 慶太は瑞穂に顔を向けると、涙声でゆっくりと語り始めた。
「せ、先生の言うとおり・・僕、夢の中で『慶花』になってました。それで、あの大きな黒人に・・襲われて・・・、抵抗したんですけど、無理矢理犯されて・・・それで・・・」
「気づいてみたら射精してたってことね?」
「は・・はいっ・・ううっ・・・」
 慶太はそこまで言うと、崩れ落ちるように首をうなだれた。

「でも、どうしてそのことを隠そうとしたの?」
 瑞穂は慶太の頭を撫でながらゆっくりと言葉をかけた。
「そ、それは・・・もし、夢の話をしたら・・あの・・・先生との約束で・・あの、本当に『慶花』として生きることになるから・・・・」
「ええ、そういう約束だったわね。 人格の統一が認識できたら、その人格で生きること。その約束は当然守ってもらうわ。」
「でも、やっぱり、怖いんだ・・・だって・・・『慶花』になったら、もう二度と男に戻ることができないんでしょう? 男の『慶太』として生きることができないんでしょう?」
「あなたはまだわかってないの? たとえ、ここで『慶花』になることを否定しても、男の『慶太』に戻ることはできないの。なぜなら男の『慶太』なんて人間は存在していないからよ。『慶太』は男ではないの。だから、あなたが『慶太』を選択しても『男』に戻ることは絶対にないのよっ」

「で、でももう少し時間をかけて、努力をすれば、男として生きることもできそうな気がするんです。」
「努力? 一体どういう努力をしようって言うの?」
「だ、だから また男として生活して・・それで、男らしい行動をしたり、男らしい考え方が持てるように・・・それから・・・男らしい性格になれるように・・・あと身体も鍛えて・・・」 
「だから、それは無駄な努力だと言っているの。いくら努力しても、あなたの中の本質は変わらないの。それは今までの結果でわかるはずよ。」
 慶太の目に消えかけていた涙がまた溢れてきた。

「ほら、今も・・・、慶太くん、気づいているかどうかわからないけど、以前に比べて、とても泣き虫になってるわ。感情が高ぶるとすぐに涙をためて・・それはもう女性の心理と同じだわ。性的傾向も、心理状態も、あなたはもう『女』なのよ。」
「そ、それでも・・・僕は、やっぱり・・・男なんだ。」
「男が自分より強い男に屈服して犯される夢を見て興奮なんてする? 男が可愛い女の子の服を着て、お化粧して、綺麗になりたいなんて思う? 」
「で、でも・・・」
「それにあなたの今の姿を鏡に映して見てごらんなさい。あなたは今ユニセックスの服を着ているけど、レディスにしか見えないわ。それはノーメイクでも顔立ちが女性に近づいているからよ。女性ホルモンを投与しているわけでないのに、そういう変化が起きるのはあなたの心理状態がそうさせてるの。」
「だ、だけど・・・」
「もういい加減に目を覚ましなさい。どうして苦しい道を選ぼうとするの?あなたは『女』なの。それを認めれば、自然体で生きることができるのよ。もう人格を合わせるための無駄な努力も必要なくなるの。」
「ぼ・・・ぼくは・・・どうしたら・・・」
 慶太の目から大粒の涙が幾筋も流れ落ちる。

「慶太くん、ちょっと立ってみてっ」
 瑞穂の声の強さに促されて静かに立ち上がった。
「服を脱いで」
「え?・・ど、どうして・・」
「いいから、脱ぎなさい。あなたのためよ!」
 慶太は瑞穂の口調に恐怖感さえ抱き、言われるままに服を脱いだ。

 小柄で華奢な身体は、全裸にするとあまりに脆弱で儚い。
 もはや服を着ているときの少年の面影さえ消え、成長期前の少女の体つきにさえ見えてくる。
 慶太は、ペニスと呼ぶにはあまりに貧弱なその部分を右手で隠しながら、俯いたまま黙っている。頬にははっきりとした紅潮が見られる。
 瑞穂は慶太の後ろに回ると、そのまま背中を押しながら姿見の前まで連れていった。

「顔を上げなさい。」
 瑞穂の声に促され、ゆっくりと視線を上げる。
 小さく細い全裸の自分を、後ろから覆い隠すように抱擁する長身の瑞穂の姿が、圧倒的な存在感を持って、慶太の目に飛び込んでくる。

「ほら、見てごらんなさい。 これが慶太くんの本当の姿よ。小さくて、白くて、細くて、今にも壊れちゃいそうな身体・・・」
「せ、先生・・」
 瑞穂の右手が、慶太の筋肉の片鱗さえ見えない胸を優しく撫でる。
「これが、男の身体? 努力すれば男になれる人の身体なの?」
「あっ・・・先生、やめて・・・くださいっ」
 瑞穂の右手は体毛のない臍の辺りで円を描くようにうごめいている。
「私には女の子の身体、それもまだ成長期に入る前の少女の身体にしか見えないわ。」
 慶太は瑞穂の右手の動きを止めようとして手を伸ばすが、容易に退けられてしまう。

「この身体が成長したとき・・・ここには・・・・」
 右手がもう一度、胸の周りをさするようにはい回る。
「綺麗で形のいいオッパイが・・・」

「ここには・・・」
 両手が、慶太の脇の下からゆっくりとウエスト周りに滑り落ちる。
「 キュッとしまったウエストが・・・」

「ここには・・・・」
 左手が肉のほとんどついていない慶太の臀部をなでさする。
「プリッと上を向いた可愛いお尻が・・・・」

「そして、ここには・・・」
 ペニスを隠している慶太の右手を、瑞穂は半ば強引に引き離す。
「可愛いピンクのヴァギナができるのよ。」
「ん、んぅ・・・・」
 瑞穂のデリケートな手の動きに身体が反応しそうになるのを必死にこらえながら、慶太は唇とキュッと噛みしめた。

「フフフ・・・それに、もうここには・・・」
 瑞穂は慶太のペニスの先端を指先で弄ぶ。
「クリトリスがあるわ。フフフ・・・」
「そ、それは・・・僕の・・・オチン・・・・」
「ううん、そんなはずないわ。オチンチンは女を犯すための物。男に犯されること想像しながら硬くなるのはクリトリスなのよ。」
 慶太は激しく首を横に振る。
「フフフ・・認めなさい、クリトリスだって。 だってこんな小さなペニスでは女を犯すことなんてできないんだから。」
「ウウン、ンン・・」
 慶太は、瑞穂のペニスを弄ぶ巧みな指の動きに耐えながら、首を激しく横に振り続けた。


 その後も慶太の身体を弄ぶ瑞穂の手の動きは止まることがなかった。
 そして慶太の息づかいが荒くなってきたのに気づいた瑞穂は少しハスキーな声で言った。
「夢のこと思い出してごらんなさい。男は『慶花』のこのオッパイをどうしたの?」
 慶太は瑞穂の言葉に一瞬目を開けて反応したが、すぐに目を閉じて躊躇いがちに答えた。
「は、激しく、ら、乱暴に・・・」
 瑞穂の右手が慶太の薄い胸の肉を激しくこすり上げる。
「ア、アア・・・」

「それから?」
「そ、それから・・太い腕で、強引に・・・抱きよせて・・」
 瑞穂の両手が慶太のか細い身体を締め付ける。
「ウ、ウッッ・・・」

「それから?」
「手で・・手で、『あそこ』を・・・さわってきて・・・」
 瑞穂の右手が慶太のかすかに硬度を増してきたペニスを弄ぶ。
「ア、アアン・・・・」
 
「それから? それからどうしたのっ?」
「そ、それから・・・アン、アア・・・大きな『あれ』を思い切り、慶花の『あそこ』に・・・アンっ・・入れてきたの。」
 瑞穂には、慶太の心に『慶花』の姿が戻ってきているのがわかった。
 慶太の言葉つきと、ピクピクと反応し始めたペニスが、それを証明していた。

「そうよ、あなたは男の太くて逞しいペニスに犯されてるの。どうして? どうしてそういう目にあうの?」
「アアン・・・ア わ、わかり・・・ません・・アア」
 ペニスをまさぐる指の動きが大胆になっていく。それにつれて硬度も最高潮を迎える。
「それは・・あなたが女の子だからよ。男が乱暴してでも奪いたくなるような可愛い女の子だからよ。」
「ぼ・・僕が・・アアン、お、女の子・・・?アア・・・」
「そう。それも男に無理矢理レイプされてるのに、感じちゃってるいけない女の子。ほら、こんなにクリトリスも硬くなってるわ。」
「アアっ・・く、クリトリス・・・」
「そうよ、クリトリス・・・『慶花』の可愛いくて敏感なクリトリス・・・」
「アアン・・・け、『慶花』の・・アン・・・・ク、クリトリス・・・」
「ほら、もうこんなに、『慶花』のクリトリスの先が濡れてきてるわ。ほら・・・」
「アアア・・・ だ、だめ・・・」
 瑞穂はペニスを二本の指先で激しくさすり上げる。
「アアアア・・・せ、先生・・・ぼ、僕、もう・・・」
「フフフ・・・もう? もう、何?」
「アア、ア・・ も、もう・・・僕、イっちゃいそう・・・」
「『僕』じゃないでしょ? 『慶花』でしょ。あなたはもう『慶花』なのよっ」
 瑞穂は強い口調で言うと、一気に頂点へ導こうと指の動きを加速した。
「アアンンン・・・、け、慶・・慶花・・イっちゃいそう・・・アアン」
「いいわよ、イきなさい・・男に犯されるのを想像しながら、イっちゃいなさいっ!」
 慶太は激しく首を振り最後の抵抗を試みるが、それもあっさり崩壊した。

「アアン・・・い、イくっ・・イクゥゥー・・・・」
慶太の身体がビクッと痙攣したかと思うと、ペニスから白い迸りが一気に噴出した。
 そしてその一部が瑞穂の右手の指を濡らした。
「フフフ・・イったわね。慶花・・・」
 瑞穂はそう言うと、テラテラと光に反射する指を慶太の顔に近づける。
「ほら、慶花をイかしてくれたペニスよ。ちゃんとお礼しなくちゃね? フフフ・・」
 瑞穂は微かに震えている慶太の唇に、ザーメンで濡れた指先を押しつけると、そのまま口中深く差し入れた。
「フフフ・・上手よ。 慶花は『おそうじフェラ』までできる従順な女の子なのね。」
 慶太は目を瞑ると、瑞穂に導かれるまま、その倒錯の世界へと落ちていった。
 

 2時間後、慶太は姿見の前に立っていた。
 だが、鏡に映っているのは、慶太ではない。
 ハイスクールの制服に身を包み、フルメイクをした『慶花』だった。
 ロングのツインテールの毛先がフルフルと揺れている。
 
「わ、わたしは・・・慶花・・・女の子の慶花・・・」
 慶太が鏡に向かって静かに呟く。
 後ろから長身の瑞穂が慶太の身体を抱きしめる。
「そう、あなたは慶花・・・生まれた時から女の子だったの。それがやっとわかったのよ。」
瑞穂のワインレッドの唇が慶太の、いや『慶花』の細くしなやかな首筋に触れる。

「わたしは慶花・・生まれたときから女の子・・・わたしは慶花・・・」
 慶太は何度も同じ言葉を繰り返した。
 それは一見すると、瑞穂の言葉をただオウム返ししているようにも思えるが、そこには慶太自身の意志が確実に存在していることがわかる。
 なぜなら、繰り返される言葉が徐々に高いトーンへと変わっていったからである。

「わたしは慶花・・生まれたときから女の子・・・これからもずっとずっと女の子・・・わたしは慶花・・・・」



****************************************

「いやぁ、それにしても、見事なものですねぇ・・・」
 カウンセリングルームで、モニター越しに瑞穂と慶太のやり取りを見ていた常田は、瑞穂が戻って来るなり、笑顔で声をかけた。
「まさか、ああいうことをして『誘導』するとは思いませんでしたよ。ハハハ」

「ですから、多少強引にでも・・・・と言ったんです。」
 瑞穂は疲れ切った身体をソファに沈めながら言った。
「いやいや、強引でも何でも、最後は慶太が自分の口で言ったんですから。『女の子として、慶花として生きていきたい』って。それはもう文句のつけようもありません。」
 常田はプロジェクトの失敗が避けられたことに喜びが隠せないようだった。
 瑞穂は常田の言葉を無視して、インターフォンを押すと、ヘルパーの後藤良介を呼んだ。

「それに、自分から『もう一度お化粧がしたい、慶花の服が着たい』と言い出したんですから、何の強制性もありませんからね。」
 常田は、瑞穂が多少うるさそうにしているのが目に入らないらしい。饒舌ぶりが止まらない。
「それにしても、最後のあの姿、可愛い少女そのものでしたねぇ。なんか、私、あの姿見てて実は・・恥ずかしながら、ここが反応してしまって・・・ハハハ」
 常田は自らのズボンの前を指さして照れ笑いを浮かべた。

 インターフォン越しに後藤良介の声が返ってきた。
 瑞穂は常田の話を制するようなジェスチャーをしてから、インターフォンに向かって返答した。
「明日から慶太をブロック3に移動させますから、すぐ準備に取りかかってください。部屋のネームプレートは『慶花』としておいてください。あと、センターに『N1新薬』の発注もお願いします。」
 瑞穂の公的な口調が、いつもとは違う緊張感を漂わせている。
 常田の顔からも笑顔が消えていた。

「『N1新薬』・・・とは何ですか?」
 常田は瑞穂がソファに腰を下ろすのをを待って質問した。
 「N/Nプロジェクトマニュアル」には、プロジェクトの過程において、必要に応じて薬物が使用される旨の言及があったことは、常田も覚えている。だが、専門外である彼にはその詳細についての情報は入っていない。
  
 瑞穂はゆっくりと説明を始めた。
「『N1新薬』とは、このプロジェクトのためだけに開発された新薬で、現時点では『N1新薬』という名称になっていますが、今後開発が進めば、順次『N2』『N3』・・・と、より進歩した新薬を使用することになるはずです。主にエストロゲンを成分としていますが、一般的に医療用に使用されるエストロゲン製剤とは異なり・・・」

「ちょっ・・ちょっと待ってください。」
「はい?どうかしました?」
「エスト・・・エストロゲン?」
「はい、エストロゲン・・・一般的には女性ホルモンと呼ばれるものです。」
「ああ、あのニューハーフの人とかが使うやつですね?」

「ええ。ただ先ほども言いかけましたが、『N1新薬』は通常のエストロゲン製剤とは異なり、このプロジェクトのためだけに使用が許可されているものです。つまりプロジェクト成功のためなら、ある程度のリスクには目を瞑る、そういう性質のものだということです。具体的に言えば、エストロゲン濃度が極めて高いことはもちろんですが、最大のリスクは麻薬などと同じように『薬物依存症』を引き起こす可能性があるという点です。もしかしたらもっと大きな副作用もあるかもしれません。何しろ動物実験しかされていないので、データがないのです。」
「そ、それを・・・慶太、いや『慶花』に使用するということですか?」
「ええ、その通りです。」
 常田は瑞穂の顔にずっと笑顔がなかった理由がわかった。
 彼女は、危険な薬物を使用しなければならないことに大きな重圧を感じていたのだ。
  
「す、すぐに使い出さなければならないのですか?」
 常田は薬物の「リスク」という言葉を受けて、多少の罪悪感も感じていたのだった。
「ええ、すぐに使用を始めるつもりです。 常田さんも今までごらんになってお分かりのように、慶太・・・いえ、『慶花』には二つの大きな特色がありました。 一つは『美』に対する好奇心と執着心、もっと言えば強迫観念とさえ言えるものです。もちろん、サブリミナル映像を利用した結果ですが、他の「Nランク」者よりもその点が顕著に出ています。そしてもう一つは、揺れやすい心です。この点も他の者たちに比べて特徴的です。これはたぶん、男性として社会的地位の高い職業に就いていたことが理由でしょう。つまり、後天的に作られた、いえ、『作らされた』表向きの男らしさが動揺を引き起こしているのです。」

「でも、その動揺は今日でなくなったのではないのですか? だから、『慶花』も自らそう選択したのでは?」
「ええ、その通りです。ただ、このままでは恐らくブロック3においても頻繁に動揺を繰り返す可能性があります。ですから、なるべく早い段階で女性化が不可逆性、つまり後戻りできないものであることを認識させる必要があります。」
「しかし、現段階では『慶花』は身体の女性化までは望んでいませんよね? ということは、それは強制性を伴う行為になりませんか?つまり本人に意思がないのに投与するということは?」

 瑞穂はこの時初めて、微かな笑みを浮かべた。その笑みはまさしく瑞穂の中の「S性」から発したものだった。
「もちろん、本人に服用の意志がなければ強制です。しかし、自ら服用を望めば自由意志です。」
「本人がそれを望むと?」
「ええ。『慶花』の『美』に対する強迫観念を利用すれば簡単に誘導できるはずです。フフフ」
 瑞穂の抑えた笑い声が、無音のカウンセリングルームを満たした。


N/Nプロジェクト 第5章

〔第5章〕 

 雪の少ない、比較的温暖な地に立地されているとは言え、1月の真冬の風はさすがに冷たい。まして、施設の広大な敷地は特に目立った遮蔽物もない吹き曝しの状態だから、戸外の寒さは格別だった。
 年明け最初の進捗確認のため、施設にやって来た常田厳は、駐車場から施設入口までのわずかな通路が寒風の吹き曝しになっていることを施設職員相手に愚痴っていた。
「このくらいの長さなら、すぐに壁とか屋根とか付けられそうなものなのになぁ。え?そうは思わない?」
「いえ、私たちでは決められませんから。そういうことは。」
 常田に馴れ馴れしく話しかけられた若い男性職員は、面倒くさそうな表情を浮かべながら答えた。
「い、いや、まあ、そうだけど」
 常田は男性職員のあからさまな嫌悪の様子に少々口ごもって答えた。 
「 どうしてもって言うなら、常田さんの力でお願いしますよ。へへへ」
 男性職員は嘲笑的な笑みを浮かべて言った。
(こいつ、もしかしたら俺が「Bランク」だってこと知って、馬鹿にしてるのか?)
 常田は内心思った。
 このところの世間に蔓延する「『Aランク』でなければ人に非ず」というような風潮には辟易していた。
 もちろん、男性職員は常田が「Bランク」であることなど知るはずもないが、常田の心にはある種の被害妄想的意識が形成されていたのである。

 施設建物内に一歩足を踏み入れると、そこは戸外の冷気とは隔絶された別天地のような暖かさだった。いや、暖かさだけではない。湿度管理や優しいBGM、アロマといった環境面での配慮がいたる所に施されている。これはすべて収容者たち、つまり「Nランク」男性たちに少しでも快適な環境で過ごさせたいという配慮からなされたことだったが、そこにはしっかりとした意図が隠されていた。
 家族や友人と離れた寂しさを少しでも和らげ、プロジェクトの進行を滞りなく進めるには、せめて環境面での不満を解消する必要があったのだ。
 
 常田が瑞穂のカウンセリングルームのドアを開けた時、そこでは瑞穂と後藤が何やら打ち合わせをしている最中だった。
 二人は常田の入室に軽く会釈で応答しながらも、会話を続けた。
「ええ、だからブロック3への移動はいつでもできるように手配しておいて。たぶんもう間もなくだから。」
「はい、わかりました。3から4への移動者もかなり増えていますから、空きについては問題ないでしょう。まあ、一応確認しておきますけど。」
「うん、そうしておいて。万が一、移動が今日明日ってことになっても大丈夫なようにね。」「はい、そのつもりです。」
 
 打ち合わせが終わり、瑞穂と後藤はほぼ同時に常田に「こんにちは」と声をかけた。
「あ、どうも、お久しぶりです。向山先生。後藤くん」
 常田も軽く会釈をした。
「ええそうですね。電話では話してますけど、いらしたのは・・いつ以来でしたっけ?」
 後藤が屈託のない笑顔を見せながら言った。
「ええと、あれは水瀬慶太のサブリミナル映像の説明を受けた日ですから・・・もうかれこれ二ヶ月になりますかね?」
 常田は質問者の後藤ではなく、瑞穂に向かって確認するように尋ねた。
「ええ、そうですね。だいたい二ヶ月位ですね。」
 瑞穂はデスクに置いてあるダイアリーに目をやりながら答えた。
「何せ、年末の事務仕事が立て込んでて、なかなかこちらに来る時間が取れなかったんですよ。これも宮仕えの辛いところですね。アハハハ・・・ ところで、今は一体何の話をされてたんでしょう? ブロックなんとかとか?」
「ああ、常田さんはまだご存じではなかったですね?ブロック分けについては。」
「はい、よかったら説明してもらえませんかね?」
「はい。簡単に言いますと、施設内の各個室をゾーン毎にブロック分けして、そこにプロジェクトの進捗状況に応じて、「Nランク」者個々を随時移動させるということです」
「うん?と言うことは進み具合に応じて、部屋を変わるってことですか?」
「ええ、そういうことになります。」
「それはまた面倒な。」
 常田は口元に笑みを浮かべながら言った。
「いいえ、ワンステップ進む毎に環境が変化するというのは、彼らにとって、自分は変わったということを認識させるには非常に大切なことなんです。」
「ふぅん、なるほどそういうことなんですね。」
 常田は時折、人を小ばかにした物言いをする時がある。特に自分の専門外の話を年下の人間がするときなどはその傾向が顕著になるのだった。
「で、それは何段階に分かれてるんですか?」
「ブロック1からブロック5までの5段階です。」
「ほほう・・・具体的にはどういう形で変わっていくのですか?」
 瑞穂はソファから立ち上がると、自身のデスクに置かれているファイルをガラステーブルに広げて見せた。

 そこにはブロック毎の詳細説明と共に各部屋の全景画像が掲載されていた。 
 ブロック1と書かれた部屋は常田にも見覚えがあった。なぜなら以前の施設訪問の際に、慶太が収容されていた部屋と寸分違わないものだったからだ。いわゆる「こざっぱり」という形容が最も似合う部屋である。ベージュがかった白の壁、質素なベッド、部屋には何の飾りもない。そして説明には「初期段階~ユニセックス段階」と書かれてあった。
 ブロック2の部屋は淡いピンクの壁に囲まれており、より暖かみのあるベッドと花や絵画といった飾り付け、そして部屋の隅には小さなドレッサーも設えてある。印象的にはどこかの少女、おそらく女子中学生か女子高生の部屋という感じである。そして説明には「女性化第一段階」と書かれている。
 ブロック3の部屋は淡いパステルカラーの壁で、ベッドが少し大人びたものに変わっている。また、ドレッサーも少し落ちついた色合いで、全体としては女子大生からOLの部屋という印象を受ける。そして説明には「女性化第二段階」とある。
 ブロック4は、大人の女性を意識したコンセプトになってるのが明確だった。部屋も広くなっていて、ベッド、ドレッサー以外にもソファやテーブルといった調度品も揃っていて、そのデザインも大人の雰囲気を漂わせている。そして説明には「女性化最終段階」と書かれてある。
 こうして見ていくと、まるで一人の女性の成長過程を擬似的に体験させることが目的なのではないかという気がしてくる。

 だが、常田はここまで眺めてから、怪訝そうな表情で瑞穂に視線を送った。
「4段階・・・と言いましたっけ?」
 常田はファイルのページをひっくり返しながら言った。
「フフフ・・・いいえ、5段階です。」
 瑞穂はいたずらっぽく微笑みながら、常田に視線を送る。
「しかし、ここには4段階までしか・・・しかも4段階は『女性化最終段階』とありますが?」
「常田さん? 忘れてもらっては困りますね。 彼らの本当の最終段階は何ですか?フフフ」
「『ニンフ化』・・・・ですよね?もちろん忘れてはなんかいませんよ。」
 常田は思わせぶりな瑞穂の物言いに少々いらいらしながら答えた。
 瑞穂は別冊の薄いファイルを開くと、微笑みながら常田の前にそっと広げて見せた。
 その瞬間、常田の表情に驚きの色が浮かんだ。
 彼には、ブロック5と書かれたその部屋にも見覚えがあったのだ。ただこの施設内で見たわけではない。以前視察で回った「特殊倶楽部」内で目にしたのである。その中の「特別室」こそ、この写真と完全に合致するものだったのだ。
「こ、これは・・・例の『特別室』の写真・・ですよね?」
「いいえ、実際には違います。『特別室』と全く同じ作りになっていますが、場所は『特殊倶楽部』内ではなく、この施設内に存在しています。つまり、ここで彼らは『ニンフ』としてのあらゆるレッスンとシミュレーションをこなしてから、各『特殊倶楽部』に送られることになるんです。『即戦力』として・・・」
 瑞穂は『即戦力』という単語に特にアクセントを置いて意味ありげに微笑んだ。
「なるほど、そういうことですか。それならすぐに現場で使い物になるってことですね。」
「いや、男たちのおもちゃにされるんだから、使い物じゃなくて『使われ物』ですよね。ハハハ・・・」
 それまで黙って二人のやり取りを聞いていた後藤が口を挟んだ。
 常田は後藤の下卑た笑い声を聞きながら、改めて目の前の写真に目を向けた。
 ベッド・ドレッサー・ソファ・テーブルなど一通りの調度品が揃っているので、女性の部屋と言えなくもない。だが、よく見るとそれぞれの色合いが濃厚で極めて扇情的な雰囲気がするのだ。しかも、続き部屋になっているクローゼットがかなり広く作られている。 常田は、『特別室』視察時に目にしたクローゼット内を思い出してみた。
 赤・黒・紫・ピンクといった色とりどりの扇情的なランジェリー類、メイド服とかセーラー服などのプレイを目的としたようなコスチューム類、ピンヒールやブーツといった様々な種類の靴類、さらにアダルトグッズと呼ばれる奇妙な器具類などが所狭しと並んでいたのだった。
 男に媚びを売るためだけに化粧をし、男の欲情を煽るためだけにランジェリーやコスチュームに身を包み、男が選ぶ器具に逆らうこともしないで従順に身を任せる・・・そんな「ニンフ」という女性の生き方が見えるようで、常田は思わず、切なさに襲われたことを覚えている。
 しかも、この施設から送られる「ニンフ」は女性でははい。無理矢理女性になることをし向けられた「男」たちなのだ。男でありながら、女として、それも「ニンフ」という最底辺の女として、他の男の力に屈し、その卑しい性欲のはけ口として生きることを余儀なくされる「Nランク」男性の運命を思うと、常田の背筋に冷たい悪寒が走るのだった。

「そう言えば、先ほど慶太のブロック3への移動が近いとかって言ってませんでしたか?」 常田は、ブロック分けの話に集中していて、肝心な慶太のことを忘れかけていた。
「ええ、たぶん、一両日中に移動の許可を出すつもりです」
「と言うことは、これに書いてあるのを見ると、『女性化第一段階』が間もなく終了するってことですか?」
 常田はファイルに目を落としながら質問した。  
 瑞穂は無言のまま、大きく頷いて見せた。
「私が2ヶ月前に見たときは男でも女でもない少年って感じでしたが、女性化ってことはかなりそういう感じになってるってことですか?」
 瑞穂はにっこりと微笑みながら、今度も無言で頷いた。そしてスクッと立ち上がるとテレビリモコンらしき器具を取り出し、左奥に設置されている小ぶりのモニター画面に向かってスイッチを押した。
「こちらをご覧ください。」
 瑞穂は意味ありげな笑みを浮かべながら常田に言った。
 
 モニター画面は一瞬白く明滅した後、一つの文字列を浮かび上がらせた。
 『水瀬慶太 ブロック2 記録』
 
「これは、何でしょうか?」
 常田は画面の変化を追いながら、小さな声で尋ねた。
 やがて文字列が消え、動画映像に変わる。
 そこには、先ほどファイルで見た「ブロック2」の部屋が動画で流れている。
 恐らく、カメラは天井辺りに設置されているのか、部屋全体を俯瞰した角度で収めている。淡いピンクの壁に囲まれた25平方メートル程の部屋であることが見て取れた。
 次にカメラは調度品の一つ一つにズームインしていく。
 壁の色とマッチした淡いピンク色のカバーで覆われたベッド、窓際のスペースに置かれたポインセチアのフラワーポット、壁に掛かったミニチュアダックスフンドの写真、そして部屋の片隅に置かれた白いドレッサーと大きめのワードローブ・・・
 動画で見ているとますます女子高生の部屋に見える、と常田は思った。
 
 一瞬、動画が消えると次に現れたのは、ドレッサーに所狭しと並べられた口紅やアイシャドウといったコスメ類と、その脇の引き出しに一杯に収められた化粧水や乳液といった基礎化粧品類の画像だった。恐らく、よほど特殊なメイクアップをするのでなければ、改めて他に用意する必要のない程の充実ぶりである。
 さらに画像が切り替わる。今度は大き目のワードローブの中が紹介される。
 上段にはブラウス、スカート、パンツ、ワンピースといった様々な種類の衣服がぎっしり並んで収められている。その華やかなカラーバリエーションとデザインの豊富さはまるでカタログ雑誌の広告を見ているかのようである。
 下段の引き出しの中には、ブラ、ショーツ、キャミソール、ストッキング、ナイトウェアなどと言ったランジェリー類とインナー類が立錐の隙間もないくらいに収められている。
 ワードローブに並べて配置されているシューズラックには、スニーカー、ローファー、ミュール、パンプスなどといった靴が溢れんばかりに置かれている。
 これらの置かれた品々を見渡してみると、半数は女子高生という年齢にふさわしく、半数はセクシーな大人の女性向けという印象を受ける。
 もしも何も知らない第三者がここまでの映像を見れば、この部屋の住人を、少し危険でセクシーな香りのする大人の世界に強いあこがれを抱く女子高生だと想像するだろう。
 
 再び、画像が消え、文字列が現れる。
『ブロック2 第1日目』
 部屋全体を俯瞰する映像に変わる。カメラが入口付近にズームインする。
 微かなドアの開閉音と共に、すこし怯えながら入室する慶太を、カメラはしっかりと捉えている。
「これからお見せする映像は、ブロック2における水瀬慶太の記録映像です。変化の過程がダイジェスト的に収められてあります。カメラは室内での慶太の行動を24時間捉えています。もちろん彼はそんなことは知りませんから、行動はすべて彼の心を正確に反映したものと言えます。オリジナルの映像は約2か月という長期間を収めた膨大なものですが、これは期間中に彼の言動が大きく変化したポイントだけに絞って編集したものです。」
 瑞穂の説明中も映像は流れていた。常田は説明に頷きながらも、目は映像を追っていた。

 慶太は部屋中を不安そうな面持ちで眺めている。淡いピンクの壁、明らかに女の子の部屋を意識したような調度品に少し面食らっているようだ。
「うん、これは私の知ってる水瀬慶太と同じですね。」
 常田が視線を上げて瑞穂を見た。
「ええ、これは常田さんがいらしてから数日後のことですから。つまり慶太が自ら、女装したいと言い出した直後のものです。」
 その後、顔を赤らめながら、ドレッサーとワードローブの内部を見つめる慶太の姿を捉えて、映像が途切れた。

『ブロック2 第2日目』
 映像は、ベッドの上で、顔面蒼白になり震えている慶太の姿を映し出す。
 あの「慶花」が夢に出なかったことによる体調の異変である。
 慶太は唇を噛みしめ、小さく頷くとベッドを出て、ワードローブに向かう。
 逡巡しながらも、そこから慶太が選んだものは純白のスタンダードショーツと、同じく白のTシャツ、そして淡いグリーンのパステルカラーのハーフパンツだった。昨日までとは異なりすべてがレディスではあるが、せめてユニセックスに近いものをという意識がそれを選択させたのだろう。
 慶太はそれらを身に着けると、ドレッサーの鏡の前に座る。
 目の前に並ぶコスメ類の中から、ブラックのリキッドアイライナーを取ると、いきなり瞼の際にラインを入れる。その後、アイシャドウ、チーク、そして最後に真っ赤な口紅を引くと、ワードローブ脇の姿見に全身を映し出した。
 慶太の表情に安堵感が広がっているのがわかる。それは震えも止まり、蒼白だった顔に赤みが戻ってきたことでも明らかだった。

「ひどいもんですなぁ。この顔は・・・ハハハ」
 映像を見ていた常田が思わず声を上げた。
 確かに下地もファンデーションもないまま、ただ手当たり次第に塗るだけのメイクである。それはただの「バケモノ」と言った方がいいくらいの出来映えだった。
「ええ、確かにひどいですね、これでは・・・。 でも、彼はこれでも十分心の安堵感を得られたようです。」 
「先生の言う女性化というのはこういうことですか?」
 例によって常田の小ばかにした物言いが始まった。
「まあ、この先を黙ってご覧ください。 
 瑞穂は右の口角を上げて微笑んだ。

『ブロック2 第11日目』
 ドレッサーの鏡の前に座る慶太が映し出される。
 その瞬間、常田はどことなく違和感を感じた。
「彼、ちょっと変わってますよね? どこがって言われるとわかりませんけど。」
 常田の疑問に答えるために、瑞穂は再生を一時停止すると、デスクの上に置いてあった黒革のダイヤリーのページを繰った。
「5日目のカウンセリングの際、水瀬慶太は、女装を始めたことで身体的な変調は少しずつ消えてきたが、鏡で自分の女装姿を見るとあまりに夢の中の自分とかけ離れていて、これでは新たな不安感と喪失感に襲われるような気がして怖い。どうしたらいいだろうかと尋ねてきました。」
「で、どういうアドバイスをしたんですか?」
 常田は一時停止状態になっているモニターに目をやりながら言った。
「いいえ、何も。自分で考えなさいと言いました。欲しいものがあれば何でも用意するけど、何を必要とするかはあなた自身で決めなさいと言いました。」
「ああ、なるほど・・・『自由意志』を持たせるためですね?」
「ええ。 でも、私は次に彼が要求するものの予想はできていました。何しろそれまでのカウンセリングとサブリミナル映像によって「美」=「善」、「醜」=「悪」という概念が無意識の内に植え付けられているのですから、「美」に関するものを要求してくるのは当然のことです。」
「で、何を欲しがりましたか?彼は?」
「メイクアップのハウツー本とファッション雑誌などです。」
「ああ、それでわかりました。まず服装が違ってるんだ。女らしいおしゃれな服に変わってるんだ。んん?でも顔も少し変わっているような気がするけど・・・ これってまだ化粧してないですよね?」
 常田は静止画像に目を凝らしながら尋ねた。
「ええ、ノーメイクですよ まだ・・・。」
 瑞穂は常田の方に顔を向けながら、左手の中指で自分の眉をなぞって見せた。
「んん?あ、ああ、そうか。眉毛だ・・・眉毛がすっきりきれいになってるんだ。」
「ハハハ・・・正解です。眉カットをしています。」
「これ、慶太自身がしたんですか?」
「いいえ、いくらメイクアップのハウツー本を見ても眉カットは簡単にはできません。これは施設内の美容スタッフに依頼したものです。もちろん彼の自由意志によってですよ。ああ、それと今では自分一人で眉カットくらいできるようになってますので、ご心配なく」「ふぅん、なるほど、すごいものですねぇ。」
 常田の口癖が出たところで、瑞穂は再び再生ボタンを押した。
 静止していた慶太が再び動き出す。

 白地に英文字が前面にプリントされたTシャツとペパーミントグリーンのジャガードショートパンツというのが、この日の慶太の服装だった。
 最初、常田が服装の変化に気づかなかったのは、慶太が座っていたからである。 遠目から、座っている慶太のショートパンツを見ると、ちょっと短めに作ったメンズのショートパンツに見えなくもない。だが、近づいてよく目を凝らしてみると、ウエスト部分にはメンズでは見られない共布を使用した極細ベルトが通り、小さなハートのワンポイントも刺繍されていて、レディスであることを主張している。

 つまり、たった10日間で「なるべくメンズに近い地味なデザインの服」から「明らかにレディスではあるけど、フェミニン過ぎない服」へと慶太の嗜好は変化していたのである。 
 その証拠に、画面には見えないが、この時慶太がショートパンツの下に身につけているのは同じペパーミントグリーンのビキニショーツだった。それはどこから見てもレディスのランジェリーとしか見えない小ささで、もしも慶太がいわゆる「巨根」の持ち主だったら、とても全体を隠しきることなどできなかっただろう。幸か不幸か、慶太にはその心配は不要だったが。 

 慶太は必要なコスメ類を驚くほど手際よく並べていく。
 約10日前のおどおどとした態度とは別人である。
 化粧水、下地クリームの基礎化粧品も忘れてはいない。さらにファンデーションもすでに自分の肌色に合わせたお気に入りが決まっているのか、何の躊躇いもない。
 カットされ整った眉をブロウペンシルが際だたせる。
 次にリキッドアイライナーを手にし、ここで初めて躊躇し、元に戻す。そしてペンシルタイプのアイライナーに持ちかえる。カジュアルなファッションにリキッドタイプはきつすぎるという知識もすでに慶太には身に付いているのだった。
 ビューラーで睫を軽くカールさせると、ダークブラウン系のマスカラを巧みに塗っていく。上側の睫だけでなく下側の睫にもマスカラのコームを縦にして器用に塗っていく。

 常田は目を丸くしながら首を何度も横に振ると、ため息混じりの声で言った。
「たった10日でこんなになるものなんだなぁ・・・」
「ええ、これには私も少し驚いているんです。ただ、慶太には『美』に対する脅迫観念のようなものが芽生えているようで、『美』に関する知識は異常なほどのどん欲さで吸収しようとします。これはやはりサブリミナル療法による洗脳が産んだ副産物なのでしょう。
いずれにしても、この頃から現在に至るまで慶太の心には、女性としての『美』の追求こそが生きる目的になっているという印象です。」
「かつては、頭の中はビジネスばかりだった会社経営者が、今は、化粧と美容とファッションだけですかぁ 何か哀れなものですなぁ。」
「いいえ、慶太の頭の中は今はそれだけですけど、もう少ししたらもっと大事な事に支配されるようになるんですよ。その時が本当の『哀れ』ってことじゃないですか?フフフ」
 常田は瑞穂の言葉の意味がすぐに理解できたが、あえて言葉を返すことはしなかった。 彼の脳裏にも、「特殊倶楽部」の「特別室」で、男達を喜ばすためのメイクを巧みな技術で施している慶太の姿が浮かび、そこに残酷な運命を感じたからだった。 

 その後、映像はアイシャドウ・チーク・口紅と流れるような動きで進んでいく。 
 そして完璧なメイクを終えると、慶太はゆっくり立ち上がる。
 この時、始めてショートパンツのデザインが明確になる。
 丈が40センチほどの短さで、しかもシルエットがAラインにデザインされている。
 慶太は、この一見するとミニスカートのようにも見えるショートパンツを自分の意志で選んだのだ。彼の心が女性化に向けて少しずつ変化していることは明白だった。

 ただ、メイクも服装も相当なレベルに達してはいるが、誰が見ても女性というまでには到達していない。その最たるものがヘアスタイルである。耳が半分隠れる長さにはなっているが、女性としてのヘアスタイルにしているわけではない。いくらメイクと服をそれらしくしても、この髪型では台無しである。
 慶太もそのことは気になっていたのだろう。
 もう一度ドレッサーの前に座った慶太の手にはセミロングのウィッグがあった。

 次の瞬間、姿見の前でウィッグをつけた慶太の姿が映像に現れる。
 常田は思わずうなり声をあげた。
「ううん・・これは・・・女に見えなくもないな。」
 瑞穂と後藤は時々目配せをしながら、画面に釘付けになっている常田の様子を黙って見つめていた。


『ブロック2 第25日目』

 ドレッサーの前でフルメイクを終えた慶太の姿をカメラが捉える。
 以前よりさらに洗練されたメイクに仕上がっている印象を受ける。
 ウィッグが、軽くウェーブのかかったミディアムヘアに変わっている。
 ゆっくり立ち上がり、姿見の前に立つ慶太。
 
 トップスは、ベージュのスカラップカラーのレースブラウス
 ボトムスは、ライトブルーのジャガードフレアスカート
 それが、この日の慶太のセレクトだった。
鏡に映る慶太の姿は完璧に仕上がって見える。
だが、次の瞬間慶太は顔を赤らめ、膝上15センチほどのスカートの裾を気にするそぶりを見せる。


「この日が水瀬慶太のスカート初日です。」
 映像を食い入るように見つめる常田に瑞穂が声をかけた。
「ずいぶん決まり悪そうにしてますね?私には完璧に見えますけどね。」
「それが、『女ごころ』っていうものですよ。常田さん。フフフ・・・」
 瑞穂は「女ごころ」という単語を強調して言った。
「恥ずかしいというなら、この前のショートパンツの方がよほど短いし、恥ずかしいんじゃないですかね?」
「長さではないんですよ。ショートパンツと違って、スカートは『女性性』の象徴ですから。それがはっきりと意識できてるんです。つまりスカートを履くことで後戻りのできない道に踏み込んでしまったという気持ちになったのかもしれません。いずれにしても、自らスカートを選択したことで、慶太の女性化の過程が一段ステップアップしたことは確かです。」
「では、この後は順調に女性化が進んでいくわけですね?」
「いえ、そう簡単なものではありません。」

 瑞穂は映像を一時停止すると、手にしたダイヤリーに視線を落とした。
「この翌日でした。慶太が意外な要求をしてきました。男物の下着・ワイシャツ・ネクタイ・スーツ・革靴などです。」
「ええ?それは一体?」
 常田が驚きの声を上げた。
「恐らく、スカートを履くことで、かえって心に葛藤が生まれてしまったのではないかと思われます。簡単に言えば、引き返すならこの時点しかないという思いでしょうか。」
「も、もちろん、拒否したんでしょ?先生?」
 瑞穂は小さく首を横に振った。
「ええ?なぜです? なぜ拒否しなかったのですかっ?」
 常田の声が興奮で一段高くなった。

 彼の脳裏に慶太に対するプロジェクトの失敗、そして結果としての引責、左遷、降格と次から次へと悪いシナリオが浮かんできたのである。
「『自由意志の尊重』というのが最優先ですから。」
 瑞穂は冷静に言葉を返した。
「そ、それはそうですが・・・これでは計画は失敗に・・・」
 瑞穂は常田の蒼白になった顔を見て、内心笑い出しそうな気分だった。
「フフフ・・・大丈夫ですよ、常田さん、心配しなくても。 すべては想定内ですから。」
 瑞穂はリモコンの再生ボタンを押した。
「とにかくこの後を見てください。」


『ブロック2 第32日目』

 スーツ・ネクタイ姿の慶太が映し出される。
 数日間剃っていないのか、髭が少し伸びている。
 ただ、わずかにバサついているとは言え、整えられた眉と、耳を覆う長髪がスーツ姿に若干の違和感を与えている。

「水瀬慶太の『男装』7日目の映像です。」
 瑞穂は心配そうに映像を見ている常田に冷静な口調で告げた。
 彼女は無意識の内に『男装』という言葉を使った。『男装』とは言うまでもなく、女性が男性の姿を装うことである。つまりその後の慶太を知る瑞穂にとっては、彼はもはや男性ではなく女性として認識されているということだ。
 だが、常田にはそんな瑞穂の微妙な言葉のニュアンスに注意を払えるゆとりはない。不満そうな表情でモニターを見つめているだけだった。

 瑞穂は再生を一時停止し、説明を始めた。
「これ以前の数日間はメイクをすることもなく、レディスの服を着ることなく、ただスーツ姿で一日を過ごしています。もちろん、カウンセリングにもスーツ姿でやって来ました。」
 常田の顔にありありとした不満の色が滲む。
(だったら、その時お得意の「洗脳」で慶太の心を変えたらいいじゃないか?)とでも言いたげな表情だった。
 
「そして、部屋ではなるべく女性的な意識から遠ざかろうと考えたのか、戦争ものや冒険ものなどのDVDを観て過ごしていました。ただ、ご存じの通り、彼の意識下には「男性性」イコール「悪」というイメージが植え付けられていますから、例の身体的苦痛がすぐに襲ってきたようです。」
「と、ということはまた『女性化』の道に戻ったとうことですか?」
 常田の顔に一瞬、明るさが見えた。だが、それも次の瑞穂の言葉ですぐに元の暗い表情に戻ってしまったのである。
「いいえ、今回は彼の意志は相当強かったようです。苦しみに耐えながらも、自分から女性化の道へ戻ることはしませんでした。その代わり、彼なりにある方法を思いついたみたいです。それは、自分の中の『女性性』を振り払うために『男性性』を高める行動をとるということです。そしてその最も端的な行動として、彼が選んだのはセックスでした。弱い女性を強引に奪う行為に『男性性』を見い出したのでしょう。おかしな話ですが、彼は真剣にそう考えたようです。ただ残念ながら、この施設内で女性とのセックスは不可能です。常田さん?もしあなたが慶太の立場だったらどうします?」
「うーん、まあ外出許可を取ってどこかの風俗店にでも行くか、施設内の女性職員の誰かと親しくなるか・・・でしょうかね。」
「そのどちらもダメだったら?」
 瑞穂の心理テストのような話しぶりに少し苛ついた常田は吐き捨てるように言った。
「む、無理矢理、誰かをレイプするか、ここを逃げ出すか・・・でしょうっ」
「フフフ・・・まあ、そうでしょうね。元々『男性性』の強い方ならそういう方法を選ぶでしょうね。でも慶太はそうではありません。彼が選んだ方法はDVDでオナニーをすることだったのです。フフフ・・・なんかちょっと哀れな感じですよね。でも、元々『男性性』の弱い慶太なら、それでも精一杯の選択だったのかもしれません。それで、この日付の前日に、彼はアダルトDVDの要求をしました。」
「ほう、どういうものを?」
「細くて華奢な女性を、強く逞しい男性が強引に奪うような激しいもの、というのが彼の要求でした。」
「ふぅん、その男に感情移入すれば男性性を高めることができると思ったわけだ?」
 常田の表情にかすかな笑みがこぼれる。不満よりも好奇心の方が上回ってきたようだった。
「ええ、そうなんでしょうね。それで用意したDVDが・・・」
 瑞穂はそこまで言って立ち上がると、デスクの引き出しから一枚のDVDを取り出して、常田に手渡した。

『THE RAPE』  
 シンプルなケースに英単語だけが記されていた。
「何て書いてあるですか、これは?」
 英語に疎い常田は瑞穂の返事を待った。
「『RAPE』つまり、『強姦』です。」
「あ、レイプ・・・ですね。で、どんな内容なんです?」
 瑞穂は常田の心が好奇心だけに満たされているのがわかった。
「短いものですから、ご覧になります?」
「ええ、ぜひとも。」
 瑞穂の口元に笑みを湛えながらの誘いに、常田も同様の笑顔で答えた。


 ガラステーブル上のノートPCのスクリーンに『THE RAPE』の文字が浮かぶ。 すぐに画面が切り替わり、小柄な白人の美少女が人影もまばらな郊外を一人歩いている姿が映し出される。アメリカのハイスクール生らしい制服と、ブックバンドでまとめられたテキスト類から判断して、学校からの帰り道を想定しているらしい。ただ制服は一般的なスタイルのものではない。白のブラウスと赤黒チャック柄のスカートという体裁は取っているが、ブラウスの丈は短くウエスト周りを露出しているし、スカートの丈は歩くたびに白いショーツが見え隠れするくらいの短さだ。ただそんなリアリティのない制服にも関わらず、少女のいたいけな表情と、ほっそりとした華奢なスタイルが女子学生らしいリアリティを持たせている。 
 カメラは美少女の後ろ姿を追う。角を曲がり人影のない路地に入る。少女の履くヒールの音だけが響く。
 と、その瞬間、少女の腕を大きな黒い手がつかむと、そのまま奥へと引きずり込む。
 泣き叫び、手足をばたつかせる少女。
 男の顔がアップになる。
 黒人の中年男だ。左の頬にナイフか何かの傷跡が残っている。
 カメラが男の全身を捉える。2メートル近い大男だ。胸板も厚く、筋肉の固まりといった体型だ。
 男は怯えながらも泣き叫ぶ少女に一発平手打ちを食らわすと、小さな身体をひょいと抱き上げ、そのまま裏の倉庫まで連れていく。
 
 それからはただひたすら陵辱の繰り返しが映し出されていく。
 服を脱いだ男の黒々とした筋肉隆々の身体に比べて、少女の白く華奢な身体が哀れなくらいに対照的だ。
 しかも男のペニスは文字通り「馬並み」と言えるくらいの巨根である。
 これで貫かれたら少女のか細い身体は壊れてしまう。
 そんな想像を観る者に感じさせる。
 
 数回の平手打ちの後にぐったりとなった少女の口に男はペニスとは言えないほどの「大木」をつっこむ。少女は苦しさの中で吐き出そうとするが、男の力の前では無力である。
 やがて、少女の口中に大量のザーメンが注がれる。
 ぐったりする少女。だが黒人男は全く疲れをしらない。
 そのまま少女の身体にのしかかると、小ぶりな乳房を荒々しく弄び、まだ半ば放心状態の少女のヴァギナめがけて、「大木」を貫く。少女の叫び声の中、男は激しく腰を動かし、一気に絶頂まで登り詰める。

 その後、レイプシーンは様々なバリエーションで展開する。
 そしてラストシーンでは、すでに5回目の射精でありながら、信じられない位の大量のザーメンが、涙に濡れる少女の美しい顔にぶちまけられる。
 
 「END」の文字が浮かび上がる。


 DVDを見終えると、常田は一つ大きなため息をついた。
「なぜ、こんなDVDを見せようと思ったんですか?外国製で言葉もわからないものを。」
 瑞穂はニコリと微笑んでから、ゆっくり口を開いた。
「それには、いくつかの理由があります。まず慶太がアダルトDVDを要求した時、私はこれは慶太の精神面の変化を確認するために、またとない機会だと思いました。洗脳と精神操作によって、彼の本能的な性衝動がどういう形に変わっているのかを知ることができるからです。それには、先入観の抱きにくい外国人が出演しているものの方がいいと考えました。ストーリー性のない物を選んだのもそのためです。」
「ふぅん、そんなもんですかねぇ」
 また常田の口癖が出た。
「で、どうだったんですか?これを受け取った慶太は実際にこれを使って、オナニーしたんですか?」
「ええ。でもそれは予想以上の結果になりました。とりあえず、映像の続きを見てください。」
 瑞穂はモニターの一時停止ボタンを解除した。
 スーツ・ネクタイ姿の慶太が再び動き出す。

 慶太は、ケースからDVDを取り出すと、プレイヤーに差し込んだ。
『THE RAPE』のタイトルが浮かび上がり、すぐに映像が始まる。
 慶太はスーツのズボンを脱ぐと、ワイシャツとトランクスだけの姿でベッドの端に座り、DVD映像を見つめている。
 天井のカメラからは、慶太の背中が少し邪魔になるが、何とかその下半身を捉えることができている。
 映像が進み、黒人の大男が出てくるころには、慶太の右手は男物のトランクスの中に伸びていた。
 さらに映像が進む。それに伴って慶太の右手の動きも慌ただしさを増している。
 トランクスも脱ぎ、下半身を露出する。慶太の貧弱なペニスはまだエレクトしていない。

 映像は進み、いよいよ大男が女性を蹂躙するシーンである。
 慶太は未だに萎えているペニスを小刻みに刺激する。
 いやがる少女を力づくで犯すシーンが続く。
 だが、慶太のペニスは全く反応を示そうとしない。
 そして大男の「大木」が何度もアップになり、少女のか細い身体との対比が強調される場面まで進むと、慶太は右手をトランクスから離して首をうなだれた。
 その後、陵辱シーンは続くが、最後まで慶太のペニスに硬度が増すことはなかった。
 

「結局、目的は果たせなかったってことだな。それにしても、あの若さでインポだとはなぁ・・・。 私なんて、さっきDVD見てただけで、かなりムラムラしちゃって・・・何しろあの女の子かなり可愛いし・・・あ、失礼、女性にこんなこと言ってしまって  ハハハ・・・」
 常田の下品な話にも、瑞穂は全く動じる様子は見られない。
「いいえ、気になさらないでください。仕事柄、何でも正直に話されるのは慣れてますから。 ただ、一つ。水瀬慶太はインポではありませんよ。」
「いや、そんなことはないでしょう。男だったらあんな可愛い子が犯されているシーン見て勃たないやつはいないでしょう。 ハハハ」
「フフフ それは常田さんがあの黒人男性に感情移入できる『通常の』男性だからです。」
「彼は通常ではない・・・ということですか?」
「ええ。もしかしたら慶太自身も以前は常田さんと同じように、あの黒人男性に感情移入することができたのかもしれません。『通常の』男性として。でも、それは上辺だけのことで、潜在的には『通常』ではない要素が大部分を占めています。それは「Nランク」男性としての彼のデータがはっきりと示しています。その隠された部分を表面化させたのが、この施設での精神操作だということです。」
 常田は瑞穂の説明に黙って頷いてはいるが、心から納得しているわけではないことが、その表情から見て取れる。

「失礼ですけど、常田さんはセックスはお強い方ですか?」
瑞穂は常田の懐疑的な思いを感じ取り、笑みを浮かべながら質問した。
「ええ、まあ、かなり強いと思いますが・・」
「サイズ的にも恵まれてらっしゃいます?」
 瑞穂のあけすけな質問にさすがの常田も顔を赤らめた。
「まあ、かなり大きい方だと思いますが・・・もちろんあの黒人ほどじゃありませんが。」
 瑞穂は大きく2回頷くと、真顔になって口を開いた。
「いいですか? 水瀬慶太は体格も小さく細い。そして精子の数も少なく、性的にも弱い、ペニスのサイズもごらんの通りです。そのことをこれまでの精神操作によって強く再認識させられているのです。そんな男性があの怪物のような黒人男性を見て、感情移入なんてできますか? 劣等感しか感じないでしょう。もしかしたら、自分には女を犯す能力も資格も権利もない、そんな考えさえ抱くかもしれません。」
「それはそうでしょうね。私もそう思いますよ。だからさっきも言ったけど、インポになってしまったんだと、そういうことでしょ?」
 瑞穂はフッと声を出して笑った。
「実は私も最初はそう思いました。ここでの精神的操作によって、性的に不能になったのだと。ところがそれは全くの誤解でした。慶太はこの後3日間、同じようにスーツ・ネクタイ姿で自慰を試みています。けれど、結果は同じでした。ところが3日目の真夜中にこういう映像が撮れたのです。」
 瑞穂はそう言うと、モニター映像の一時停止を解除した。


『ブロック2 第35日目』

 就寝中の慶太が映し出される。
 暗闇の中なのでほとんどシルエットしか撮れていない。
 突然ごそごそという音と共に部屋のライトが点灯する。
 ベッドに座り込んでいる慶太の姿が映る。何かに当惑している表情だ。
 慶太は右手をパンツの中に伸ばす。そしてすぐに手を引き戻す。
 指先のテラテラとした輝きが、カメラからも認識できる。

「んん?これは・・・・?」
 常田の声にならない声が、出来事の意外性を物語っている。
「はい、いわゆる『夢精』ですね。 慶太は夢精をしています。」
「ああ、やっぱりそうですか。ちょっと意外だったものでわかりませんでした。ああ、なるほど、先生は夢精があったから慶太は不能ではないとおっしゃりたいんですね?」
「ええ、そうです。 ただ・・・・」
「ただ?」
「問題はこの時慶太が一体どういう夢を見てたのかということです。」
「どういう・・・夢?」
「はい、つまり慶太がどういう状況に性的興奮を覚え射精にまで達したのかが、夢によってわかるということです。」
「ほう、で、慶太はどういう夢を見てたのですか?」
「はい、それは翌日のカウンセリングの中ではっきりしました。とても大事なやり取りでしたので、こちらの編集版にそのまま入れてあります。よくごらんになってください。」
 瑞穂はそう言うと、リモコンの早送りのボタンを押した。


『ブロック2 第36日目(カウンセリングルーム5)』

 スーツ姿の慶太と瑞穂がソファに座っている。いつものカウンセリングの位置である。
「どうかしら?あのDVD気に入った?」
「はい・・・まあ。」
 いつもにもまして慶太の声は小さい。
「うん?あんまりはっきりしないわね。いいのよ、カウンセリングなんだから恥ずかしがらなくて。」
「あ、あの・・・オナニーは・・・できませんでした。」
「ああ、そう。気に入らなかった?あのDVD? でも慶太くんの要望通り、か細い女性を屈強な男が襲う内容だったと思うけど。」
「あ、はい・・それはそうなんですけど・・・」
「じゃあ、あれから射精はしてないってこと?」
 慶太は無言のまま俯いている。
「うん?どうしたの?射精はしてないんでしょ?」
「あ、あの・・・実は・・今朝・・・」
「うん?オナニーしたの?」
 小さく首を左右に振る慶太。
「もしかして・・・夢精?」
「は・・・はい。」
「そう。で、どんな夢だった? やっぱり、慶太くんが、か弱い女の子を犯すような夢?」
 首を左右に振る慶太。
「じゃあ、どういう夢?」
 瑞穂の顔が興奮で紅潮している。
「あの・・・また夢の中に『慶花』が出てきて・・・それで、あのDVDの女の子みたいな制服を着て、あの大きな黒人の男に・・・」
「え?犯されたってこと? 慶太くんが女の子の『慶花』になって犯された夢をみたってこと?」
 視線を落としたまま小さく頷く慶太。
 しばらく沈黙が流れる。
 何かを思いついたのか、瑞穂の目が一瞬キラっと光る。
 そして口元に微笑を湛えながら俯く慶太を見つめている。

「ねえ、慶太くん。これは、ちょっと問題かもしれないわ。」
 視線を上げ、瑞穂の方を向く慶太。
「あなたは、今、男性に戻ろうとしているのよね?だからスーツを着たり、アダルトDVDを要求したりしたのよね?」
 黙って頷く慶太
「それなのに正反対の女の子になって、しかも強い男性に犯される夢を見て、射精してしまう。 これは理性だけで男性への回帰を無理強いしようとするために、心の統一が崩れてしまっているんだと思うの。これはとても危険なことよ。早く治さないと取り返しのつかない結果に繋がる可能性があるわ。」 
「ど、どうしたら・・どうしたらいいんですか?」
「うーん、本当の慶太くんの心の統一を取り戻すために、まず男性へ回帰しようとするバカな行為はすぐにやめて、以前の慶太くんの生活に戻ること。」
 瑞穂の断定的な物言いに、黙って頷く慶太。
「その上で、一定の期間、人格の統一を図ること。」
「人格の・・・統一?」
「今、慶太くんの心の中には、男としての『慶太』という人格と、女としての『慶花』という人格が存在しているの。それが心の統一を崩している一番の原因よ。だから、これから一定期間ずつどちらか一方の人格だけを意識して過ごすこと。その時にもう一方の人格が現れなければ、そちらの人格が本当の慶太くんということになるでしょ? わかる?」
「は、はい・・・何となく。」
「フフフ・・・いいわ。何となくでもわかってくれれば。それでこの数日は男の『慶太』として過ごしてきたわけでしょ?」
 小さく頷く慶太
「でも夢の中に『慶花』が現れて邪魔をした。それも性的な部分でね。だから、今度は意識的に『慶花』として5日間過ごすの。それで、もし『慶太』が現れて邪魔をしたら、まだどちらの人格が本当の慶太くんかは判断がつかないけど、逆に『慶太』に全く邪魔をされずに過ごせたら、それは・・・」
「『慶花』が本当の・・・僕ってこと・・・ですか?」
「ええ。そういうことになるわね。」
「そうなったら・・・せ、性転換手術とか・・・しないといけないんですか?」
「アハハ・・・それは別問題よ。手術なんてしないで女装だけで過ごしたっていいじゃない? だからそういう結果が出ても、今までとあまり変わるわけじゃないわ。むしろ心の統一が得られてすっきりするはずよ。でしょ?」
「そ、そうでしょうか?」
「そうよ。先生を信じなさい。」
「は、はい・・・」
 不安からか慶太の声が微かに震えている。

 ここで一旦映像が切り変わる。
そして一瞬の後、再びカウンセリングルーム。
 瑞穂の膝の上にノートが置かれ、右手にはワインレッドのボールペンが握られている。
「じゃ、慶太くん、正確に答えてね。慶太くんの夢の中に出てきた『慶花』像をきちんと再現しないと意味がないんだから。隠したり嘘をついたりしないでね。いい?」
「は、はい・・・」
「まずは、お洋服からね・・・どんな服だった?夢の中の『慶花』ちゃんは?」
「あ、あの・・・制服でした。DVDの女の子と同じような色の・・・でもあんなに短くなくて・・・このくらい・・・」
 慶太は自分の太股のちょうど中央くらいの位置を示した。
「あ、そう。白のブラウスとチェック柄のミニスカートね。」
 瑞穂はニヤニヤしながらノートに書き留める。
「髪型は?」
「ロングのツインテール・・・でした。」
「あら、可愛いのね。お化粧は?あ、それは慶太くんに任せるわ。メイクするのは慶太くんだからね。フフフ・・・」
 瑞穂のいかにも楽しそうな笑い声が続く。
「あとこっちで準備しておくことは・・・と、あ、そうそう『慶花』ちゃんは、高校生よね?どんな高校生? ええと・・・性格とか、癖とか。」
「あの・・・大人しくて、引っ込み思案で、恥ずかしがり屋で、泣き虫で・・・」
「フフフ・・・今時そんな女の子なんてなかなかいないわね。 ねえ、これって慶太くんの潜在的な願望なんじゃないかしら。そういう女の子になりたいっていう願望。」
「そ、それは・・・絶対に・・・違います」 
「フフフ・・そうかしら? まあでもいいわ。そのうちわかるから。」
 瑞穂が何やら意味深長な言い方をする。
「じゃ、これで準備するわね。それからもう一度確認だけど、5日間は本当に自分を『慶花』だと思って、他のことは何も考えちゃだめよ。そうしないと本当の自分を確かめることにはならないからね。」
 瑞穂の強い口調に、慶太は小さく2回頷いた。


 瑞穂は再び、一時停止ボタンを押した。 
「慶太は、そんな夢を見ていたのか・・・」
 常田は呟くように言った。
「ええ、私も最初は驚きましたが、彼のこの時の心理状況を考えれば、こういう夢を見ることは十分あり得る事だと思います。」
「ところで、先生、映像の中で慶太にお話になっていることは全て本当のことですか?」
「フフフ・・まあ、真偽半々といったところでしょうか。ただ全体としてはうまく誘導できたなと思ってますけど」
「なるほど。それで、この後慶太は『慶花』として5日間を過ごしたのですか?」
「ええ。準備には少し時間がかかりましたが、しっかりと『慶花』を演じきりました。」
「そ、その・・・映像はないんですか?」
「フフ・・ご覧になりたいですか?」
 瑞穂は、常田の言葉に『慶花』への好奇心を感じとり、ほくそ笑んだ。
「ええ、まあ。」
「では、お見せしましょう。これは『慶花』になって5日目、つまり最終日ですが、ここでまた大きな出来事がありました。よく見てください。」
 瑞穂はそう言うとリモコンの一時停止を解除した。


『ブロック2 第45日目』
  
「こ、これは・・・すごい・・・」
 常田は思わず驚嘆の声をあげた。
 文字が消え、画面に現れたのが想像を遙かに超えた美少女だったからだ。
 
 白いシルクのブラウスに赤黒のチェック柄のミニスカート。
 それはアメリカのカトリックスクールの制服を思わせる。
 あのアダルトDVDの少女役の女性が着ていた物と色合いは同じだが、丈の長さが全く違う。ブラウスはスカートの中にきちんと収まる長さだし、スカートもミニ丈とは言え、十分に実用に供することのできる長さである。そのバランスがとても上品で、今日のメイクとマッチしている。
 そのメイクは透明感のある仕上がりで、淡いマロンブラウン系のシャドウとローズピンクの口紅が、少し背伸びした女子高生という印象を醸し出している。しかも制服であることを意識しているのか、睫毛はビューラーで軽くカールした後、上睫毛だけに透明のマスカラを施し、睫毛の長さのみを強調するというテクニックまで使っている。これが数ヶ月前まで企業経営者であった35歳の男性にできる技なのだろうか。
 それに童顔だとは言え、ロングのツインテールというおよそ少女にしか似合わないようなヘアスタイルに、全く違和感なくフィットしているのだ。
 常田が慶太の美少女ぶりに驚嘆の声を上げたのも無理からぬことだった。

「可愛いでしょ? 常田さん フフフ」
 瑞穂が常田の顔をのぞき込むようにして言った。
「う、うん・・・確かに。」
 常田は映像から目を離そうとしない。
「それに、部屋の造りが高校生位の感じだから、よりフィットしてますよね。」
 瑞穂はうれしくて仕方ないらしい。顔のほころびが消えないのだ。

 カメラは慶太の部屋の中での行動を捉えている。
 少し肌寒いのか、薄手のカーディガンを羽織るとベッドの端に腰を下ろし、ファッション雑誌に目を落とす。脚を斜めに流すような大人の女性らしい姿勢ではなく、ただ内股に脚を閉じている姿がかえって初々しくさえ感じさせる。

「こういう座り方とかはどうやって覚えたんでしょうか?」
 常田は不思議そうに言った。
「いえ、特別なことではないでしょう。男性でも瞬間的に内股で座ることもあるでしょう。それを見て女性的だとは誰も思いませんが、今の慶太の場合、外見上女性にしか見えませんからそんな小さな動きさえ、女性的という印象を与えるんだと思います。」
「なるほど、特別に仕草とかを身につけているわけではないんですね。」
「ええ、それはもっと先のブロックで身につけることになりますから。」   
 
 映像は一瞬切り替わり、時間が経過したこと示している。
窓の暗さから、どうやら夜になっているらしい。
ベッドに入って読書している慶太の姿が映し出される。
 服はパジャマに替わっている。もちろんレディスのパジャマだ。
 薄いイエロー地に大きめのフラワープリントが施された少女らしいデザインだ。
 ロングのツインテールのウィッグはそのままである。恐らくこの5日間は外すことが許されていないのだろう。
 ノーメイクに戻ると、さすがに少女の面影は消えている。
 ただ童顔な上に眉が整えられているので、35歳の男性にはとても見えない。せいぜい20歳台前半の「男の子」というイメージだ。そしてそのイメージは、華奢な体つきと合わせた見た時、さらに年齢にして5歳は若返らせ、性別も「ユニセックスの少年」へと変わっていく。

 この後、映像は暗くなり、微かな光の中で慶太の就寝中の姿が捉えられる。
 寝息の深さから判断して、就寝してからかなりの時間が経過していることがわかる。
「んん、んー」
 突然、沈黙を破る、微かな声がモニターから流れてくる。
 そして、次の瞬間、微かなうめき声は明瞭な声となって常田の耳に届いた。
「い、いや・・・やめてぇ・・・」
 それは紛れもなく慶太の声である。
 
 常田は思わず、瑞穂の方に視線を向けた。
 だが、瑞穂は全く動じる様子を見せない。それどころか、笑みを浮かべながら小さく頷いて見せた。

「お、お願いやめて・・・だ、だめぇ・・・」
 慶太の声はよりはっきりした叫び声に変わる。
 そしてベッドのきしむ音と衣擦れの音に混じって、暗闇越しにベッドが動いているのがわかる。
 
 やがて、その音が静まると、突然映像に光が差す。
 部屋のライトが点灯したのだ。
 ベッドに、上半身だけ起こした慶太の姿がはっきりと映し出されている。
 右手をパジャマのズボンの中にゆっくりと差し込んでいく。
 慶太の深いため息が聞こえる。
 と、同時にカメラが捉えていたのは、慶太の右の指先に光る粘着性の液体だった。

 常田は、自分の目に映った光景に間違いがないかを確かめるために、視線を瑞穂に送った。
「ええ。夢精です。」
 瑞穂はそれだけ言うと、再び一時停止のボタンを押した。
「これが、先生の言う大きな出来事ですか?」
「ええ、そうです。とても大きな出来事です。慶太にとっても、私たちにとっても。」
「しかし・・・夢精は前にもあったでしょう? なぜそんなに重大な事と言えるんですか?」
「常田さん、今、慶太はどういう夢を見ていたと思いますか?」
 瑞穂は常田に事の重大性を気づかせるために、あえて質問で返した。
「それは、恐らくあの寝言から言って、誰かに犯される夢でも見たんでしょう。」
「ええ、そうですね。あの悲鳴は、夢の中で『慶花』があの大男に犯されて発したものでしょう。だとしたら、これは大きな出来事と言えないですか?」
 瑞穂は常田の反応の鈍さに少々いらいらした表情を浮かべた。
「うーん、よくわかりませんねぇ。前回も今回も同じように、犯される夢を・・・あ、ああ、そうかっ!」
 常田は大きな声を上げた。
「フフフ・・・お分かりになったようですね。」
「はい。何か慶太の姿があまりに違和感がなくなっていたので、女として夢を見ているのが、つい当たり前のように感じていたんでしょうかね。ハハハ」
 常田は相好を崩して言った。

「お分かりのように、前回は男の『慶太』として過ごしていながら女の『慶花』として夢を見たわけですが、今回は女の『慶花』として過ごしている中で、やはり『慶花』として同じ夢を見た。つまり今回は人格の統一性があるということです。そしてそのことは、彼の本来の姿が・・・・」
「女の『慶花』である・・・ということですね?」 
 常田は瑞穂の言葉を遮って話を継いだ。
「ええ。カウンセリングで私が話したことで、少なくとも彼はそう思ったはずです。」 
「では、この後、いよいよ慶太自身が納得した形での『女性化』が進んだというわけですね?うーん、ホッとしました。アハハハ」
 常田の満足げな笑いは途切れることはなかった。慶太のプロジェクトが順調に進行することで自らの引責の可能性がなくなった事への安堵感がその源となっているのは明白だった。

「残念ながら、そう決まったわけではありませんよ。」
 瑞穂は常田の笑いが一旦途切れるのを待ってから冷静に言った。
 常田の表情から笑顔が消えた。
「ど、どういうことでしょうか?」
「慶太が自ら、女性化への道に踏み出す決心をするかどうかは、今日これからの彼との話で決まるということです。」
 常田は無言で瑞穂の顔を見つめている。次に、彼女の口から発せられる言葉が、少なくとも自分にとって良い話であって欲しいと願いつつ。

「実は、彼はこの夢精の事実を、私との面談した際に隠しています。それは逆に『慶花』としての夢だったことの証でもあるわけです。なぜなら、彼はいまだに女性化に踏み切ることを恐れていますから、もし『慶太』としての夢だったなら、私に迷わず伝えるはずです。ただ、彼が自らそれを認め、自分の本当の心は『慶花』であり、だから女性化への道を進むと言わない限り、次の段階に入ることはできません。」
「ということは、やはり慶太の女性化はうまくいってないということですか?」
 常田の声に再び落胆の色が滲む。
「いえ、私はこの事実を逆に利用したいと思っています。慶太は今、私に重大な事実を隠していることで相当な重圧を感じているはずです。その証拠に、この日以後のカウンセリングではほとんど私の目を見て話すことができなくなっています。ですから、その点を利用して、ここはある程度強引に彼の心の中を引き出してみたいと思っているんです。」
「そ、それは『強制』ということではないのですか?」
「いえ、最終的には彼の判断に委ねます。ですから『強制』というよりは『誘導』と言えるかもしれません。」
 瑞穂はそう言うと、心配そうな表情を浮かべている常田に手書きのメモを渡した。
 そこには約2時間後に予定されている慶太とのカウンセリングに関しての大まかな内容が書かれてあった。  
 

N/Nプロジェクト 第4章

〔第4章〕
 
「というわけで、昨日を持って人事異動は全て終了いたしました。国の所管部署にも報告を済ませておりますので、社長もご安心いただいて結構です。」
 コンフェクショナリー・ミナセ本社ビルの社長室では、弘美が人事部長からの人事報告を受けていた。
 「国民適正化法」に基づく人的な異動は、このミナセ以外の企業でも着々と進んでいた。
 中には、社員の70パーセント以上の異動が余儀なくされた企業もあり、この年末に向かって世間では慌ただしさが増している。
 幸い、ミナセでは40パーセントほどの異動ですんだのだが、それでも完全に終了するまでに、およそ2ヶ月半を費やしたことになる。それはちょうど水瀬弘美が社長代理に就任してからの期間とほぼ同じということになる。

「そうですか。ご苦労様でした。それにしても、こんなに多くの人が入れ替わると、社内の雰囲気もずいぶん変わってしまったわね。」
 弘美はこの2ヶ月半で新たに入社した社員のリストを眺めながら言った。
「ええ、そうですね。人事部でも新たに外部から招いた社員の方が多いくらいですから、少々混乱しております。」
「本当ね。いくら適性を判断していると言ってもこれではかえって事業効率が悪くなってしまって、経済的にも損失なんじゃないかしら。」
「いえ、そういうことはないと思います。長期的に見れば、適性度の高い社員で業務を行った方が絶対に効率は上がるはずですから。」
 人事部長は、少し不満げな表情を浮かべる弘美を窘めるように言った。  
「ええ、それならいいけど。」
 弘美の視線は、社員リストから新役員リストに移った。弘美も含め役員の全員が「Aランク」という表記がされていた。

 実は、役員が必ずしも「Aランク」であるという必要はない。
「適性検査」での「Aランク」というのは、あくまで現行の職業・職責・社会的地位が最適性であることを表しているのであって、必ずしも個人の能力や資質が高いことを示すものではなかった。ところが、結果として「Aランク」と認定された人物を見てみると、社会的地位の高い場合が多かった。そうなると世間的には「Aランク」イコール「高い能力と資質」と見るようになり、同時に「Cランク」イコール「無能で資質も低い」と見るような風潮に変わってきたのだった。人間の差別意識というものはどうしようもないもので、「Cランク」でさえ、そのように見られるくらいだから、再教育が必要とされる「Dランク」に対しては推して知るべしであった。逆に「Aランク」というだけで、まるで特権階級にでもいるかのように自分を過信するものまで出てきた。
 そんな風潮に対し、当初は国の所轄部署も注意を促す発言をしていたが、世間の認識にあまり大きな変化はなかった。
 そうなると世間のイメージを大切にする各企業の中には、入社条件に「Aランク」を加える所も出てきた。
 ミナセは入社条件に「Aランク」を付しているわけではないが、少なくとも役員は「Aランク」でなければという役員会議での決定を受け、その形に落ちついたのである。
 
 弘美は小さくため息をついた。
 新役員のメンバーに、心から信頼の置ける人物がほとんどいなかったからである。 
 もちろん、中には旧知の人物もいる。だが、約半数の役員が外部招聘者であることもあって、まだどんな人物なのかもはっきりしない。弘美の心には幾ばくかの不安が沸いていた。
 ただ、その新役員のメンバーの中に弘美がたった一人だけ、絶大の信頼を寄せることのできる人物がいた。
 それは、弘美の強い推薦によって実現した人事だった。もちろん、その人物とは、山村誠也である。
 弘美が社長代理に就任してからの2ヶ月半という期間、彼女を最も励まし、支えてくれていたのは誠也だった。役員就任はその報奨的な人事という側面もあったが、それ以上にもっと身近で自分を支えてもらいたいという弘美の個人的な思いによるものだった。
 もちろんそれは恋愛感情などではない。少なくとも自分ではそう思っている。だがそうだからと言って、幼なじみの気安さとばかりも言えない。
 弘美はそんな複雑な感情に多少の戸惑いを感じながらも、公の場では決してそれを見せることはなかった。


「社長、次に第2工場の工場長の人事に関してなんですが、これはぜひ社長にもご意見をいただきたくて・・・」
「ちょ、ちょっと待って。私は社長じゃないわ 気をつけてっ」
 弘美は人事部長の言葉を反射的に遮って言った。
「あ、失礼しました。」
 人事部長はとっさに謝ったが、その表情にはいくぶん不快感も滲んでいた。
 弘美にはその意味するところがすぐにわかった。
 
 半月ほど前からだろうか、社内で弘美を「社長」と呼ぶ者が増えてきた。それは実際の社長である水瀬慶太を知らない外部招聘の人材が増えてきたことも原因の一つだが、それ以上に「Dランク」蔑視の風潮が社内を横溢してきたことが大きかった。
 約1年の再教育期間を終え、慶太は社長として復帰するという話は聞いている。だが、「Dランク」の人間に企業経営などできるはずがない。だから、会社の繁栄のためにも、弘美がそのまま社長として存続するように、「弘美 社長」を既成事実化してしまおうという無意識の判断が働いていたのだ。それは彼らなりの会社を思う気持ちの表れであることは確かだが、弘美には正式に社長に就任する意志はない。自分はあくまで、夫の留守を守るための「代理」であって、その器でもない。もちろん、元々上昇指向のある弘美にキャリア欲がないわけではない。ただそれはせいぜい関連事業の責任者としてのポジションくらいしか念頭にはなかったのである。
 
「しかし・・・それにしても慶太社長は本当に復帰できるのでしょうか?」
 人事部長の顔に微かな冷笑が浮かぶ。
「それは・・・どういう意味?」
「いえ、世間の噂ですが、『Dランク』者が再教育後に前職に復帰できる可能性はないって聞きましたけど。」
「そ、そんなはずはないわ。私は常田という担当者から直接聞いているから確実よ。」
「そうですか。それなら、問題はありませんけど。」
 人事部長の顔には明らかな不満の色が浮かんでいた。 

 この二人のやり取りには決定的な誤りがある。
 それは、水瀬慶太が「Dランク」ではなく「Nランク」だといういうことである。
 従って、今慶太が受けているのは「再教育」などではなく「ニンフ」へと変わるための「処置」に過ぎない。
 もちろん、そのことを知る者は、少なくともミナセ社内には誰もいなかった。

****************************************

「それにしても・・・・」
 弘美は人事部長の退室後、デスクに置かれている卓上のカレンダーを見つめながら、一人呟いた。
「それにしても、どうして一年もかかるのかしら? それも連絡さえできないなんて・・。まさか人事部長の言うように復帰できないなんてこともあるの?」
 弘美の心に言いようもない寂しさと不安が募る。
 2ヶ月半もの間、重責に押しつぶされそうになりながらも、必死でがんばってきたのは、愛する夫、水瀬慶太の復帰を待つためである。もしもその復帰が叶わなのなら、一体何を支えにがんばったらいいんだろう。
 弘美の目にはうっすらと涙が滲んでいた。
 職場では決して涙は流すまいと決めて、このひと月ほどは耐えてきたのに、とうとう大粒の涙が弘美の両頬を流れ落ちていった。
 弘美は自分の人差し指が、内線番号「203」と押すのを止めることができなかった。
 内線番号「203」。それは山村誠也のものだった。


 誠也は社長室のドアをノックする前、ことさらに明るい笑顔を作った。
 弘美の電話越しの声が、いつもとは違って涙混じりだったからだ。
「どうぞ・・・」
 誠也のノックに応える弘美の声が聞こえる。やはりわずかながら涙声だった。
 誠也は静かにドアを開け足を踏み入れた。いつもなら正面のデスクにいるはずの弘美の姿が見えない。
「こっち・・こっちに来て。」
 弘美の声だ。誠也は声のする方向に目をやった。
 社長室に続く、専用の応接間のドアが開いている。
 誠也はその中に入ろうとして、ハッとする。
 いつもは邪魔にならないように束ねているロングヘヤーを解いて、こちらを涙ながらに見つめている弘美の姿があった。
「しゃ・・・社長代理・・・」
 誠也は弘美の予想もしなかった姿にたじろいだ。
「誠也くん、前に甘えたくなったら甘えてもいいって言ってくれたよね?」
 誠也は黙って頷いた。
「でも・・・社長代理と役員じゃ、そんなことできないもの。 だから、こうして髪の毛下ろしちゃった。こうすれば幼なじみの弘美と誠也くんでしょ?」
 弘美は泣き顔に微かな笑みを乗せて言った。  
「ねえ、誠也くん、私・・・寂しくて不安で・・どうしようもなくて・・・」
 弘美はそこまで言うと、誠也の胸に飛び込んだ。
 女としては身長の高い弘美だったが、誠也のガッチリとしたスポーツマンとしての肉体がそれをしっかりと受け止めた。
「ひ、弘美ちゃん・・・」
 弘美の背中に回した筋肉質の腕に力が入る。
(な、何て力強いの? 何でこんなに安心するの?)
 弘美は心の中で囁いた。
 今まで、自分より身長の低い慶太との抱擁では感じたことのないしっかりとした力強さと、どっしりとした安定感に我を忘れそうになった。

 誠也は恍惚とした表情を浮かべる弘美を目の前にして、男の本能が抑えきれなくなっていく。
 誠也は弘美のワインレッドに染められた唇に自らの唇を重ねた。
 その瞬間、弘美は目を開け、身体を離した。
「ご、ごめんなさい・・・誠也くん、そういうつもりじゃないの。私は夫を愛してるし、裏切ることなんてできない・・・ただ寂しくて・・それで・・・」
 弘美の大きな瞳から、また大粒の涙があふれ出した。
「ぼ、僕の方こそ・・・ごめん。 つい・・・弘美ちゃんが・・・」
(綺麗だから)という言葉を誠也は心の中にしまい込んだ。
 それはかえって弘美の心を惑わすことになるような気がしたからだ。
「そうだよね。寂しいのは当たり前だよ。だって2ヶ月半も連絡すらできないんだからね。いいよ、これからだって寂しくなったり心配になったりしたら、いつでも呼んでいいからね。その時は幼なじみの弘美ちゃんと誠也でいようね」
 誠也は精一杯の笑顔で弘美を見つめた。
 弘美は小さく頷くと、もう一度誠也の男らしい厚い胸に飛び込んだのだった。 
 
****************************************

 その夜、弘美は熟睡できぬまま朝を迎えた。
 少しうとうとしかけると、すぐに熱い思いが胸にこみ上げてくるのだった。
 それは寂しさと心細さから逃れるために男を求める女の性(さが)から発した感情だったに違いない。
 男に抱きしめてほしい、髪の毛を優しく撫でてほしい、そして身体をゆっくりと愛撫してほしい・・・そんな感情が弘美の胸に広がっていった。
 弘美は眠れないまま、そっと目を瞑った。
 脳裏に一人の男が浮かぶ。しかしそれは夫の慶太ではなかった。自分より小柄で、細身の慶太とは、全く正反対な大柄でガッチリした体躯と逞しい筋肉を持った男、山村誠也だった。
「馬鹿ね、何を考えてるの 私ったら? 誠也くんは幼友達でしょ。慶太はれっきとした夫なのよ。」
 弘美の心に理性の声が響く。
 しかしそんな理性とはどこか全く別のところで動いている感情があった。
 弘美は誠也の面影を振り払おうと頭を何度も左右に振った。解いた美しい長い髪が頬を盛んにくすぐった。
 弘美は、慶太の姿を思い出そうとした。しかしその姿はすぐに消え、脳裏を誠也の姿に独占されていく。しかも再び現れた誠也は上半身を露わにし、下半身には身体にフィットする競泳用の水着一枚の姿だ。
 弘美は一瞬ハッとする。脳裏の誠也は想像上の姿ではなかったのだ。それは記憶の中の誠也。学生の頃、仲間達と共に行ったプールで見た誠也の姿だった。
弘美はその時、誠也の水着姿を目にして、あることに気づいたことを思い出し、ますます顔を赤らめた。
 それは何気なく目にしてしまった誠也の水着の前部分の膨らみに対してだった。
 誠也のそれが、仲間の男の子たちの誰よりも大きく盛り上がっているのを弘美は目にしたのだった。もちろん恥ずかしさのあまりすぐに目をそらしたが、その映像ははっきりと記憶されていたのだ。
 その姿が今、十数年の時間を隔てて再び弘美の脳裏に甦ってきた。弘美は夫の慶太の身体を思い出そうとした。比較しようとしたのではない。誠也の姿を消し去ろうと思ったからだ。だが、それは弘美に全く別の思いをもたらすことになったのだった。
 
 家での慶太はどんな時でも、弘美に男性自身を見せたことはない。一緒に入浴したこともないし、夜の営みの際にも前戯の間中下着をつけたままだった。
 弘美にはそれが慶太の、いわゆる「男性のサイズ」に対するコンプレックスのためだということは薄々気づいていたので、あえて何かを言うことはしなかった。
また、弘美自身もその「サイズ」のことで性生活に不満を感じることなどなかったのだ。
 
 しかし、今こうして女としての本能的な欲求を男に対して抱いた瞬間、慶太のみすぼらしく貧弱な男性自身は弘美の求める対象ではなくなっていたのである。
 太く逞しく、男らしい男根に貫かれたい・・・そんな本能的な思いが弘美の心を占有してしまったのである。
 
 その日、弘美はひと月ぶりに、自らを慰めた。
 ただ、ひと月前の自慰とは異なること・・・それは脳裏に浮かぶイメージが、慶太の貧弱な身体で営まれる大人しい性行為から、誠也の逞しい身体で強引に奪われるそれに変わっていたことだった。
 
プロフィール

サテンドール

Author:サテンドール
=============================================
女性化小説なら国内・海外を問わず大好きです。

特に屈辱系・羞恥系・強制系・寝取られ系・立場逆転系・年齢退行系・SISSY系などなど・・・。

happy よりは、unhappy ending が好み。
(ちょっと、性格がゆがんでるのかも^^)

私事ですが、以前某サイトに 
「高野奈緒美」のペンネームで
『ある性転者の告白』という拙い小説を掲載させて頂いておりました。事情があって途中で掲載を止めましたが、その完結編も当ブログでご紹介できればと思っています。

それとランキングにも参加させていただきますので、
ポチッとクリックいただければ幸いです。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
アクセスカウンター
オンラインカウンター
現在の閲覧者数:
フリーエリア
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR